最低で最高のロックンロール・ライフ

連載 水上はるこ・元ML編集長書き下ろし

第2回:ポール・マッカートニー来日未遂 その1(1975年)

今回で第2回となる新連載「最低で最高のロックンロール・ライフ」は、かつて弊社で『ミュージック・ライフ』編集長を務められた水上はるこさんによる書き下ろしの原稿です。水上さんが弊社で関わった雑誌は『ミュージック・ライフ』『ぷらすわん』『jam』『ロックショウ』など。その後も現在に至るまで国内外でロックに関わり続け、ありとあらゆる数多くのアーティスト/グループの現場に携わってきています。

この連載は、そんな水上さんが『ミュージック・ライフ』世代の方たちに向け、主に70〜80年代──編集部/編集長〜フリーランス時代に「じかにその目で見た」「経験した」記憶・体験をお書きいただこうというもの。水上さんご自身が選んで、その第2回目に取り上げられたのは、ポール・マッカートニーの二度にわたる “来日未遂” その1回目、1975年の真実です。

ポール・マッカートニー来日未遂 その1(1975年)

文/撮影(★)◉水上はるこ 撮影◉長谷部 宏/ML Images/シンコーミュージック
Text / Pix(★): Haruko Minakami   Pix : Koh Hasebe / ML Images / Shinko Music
 
『事件』から45年もの月日がたつと、当時の真実を知る人も少なくなり、情報が断片的に流れて、やがて『都市伝説』と化してしまっている。そのとき、そばにずっといた私が真実をお伝えします。なお、ほとんどは『ミュージックライフ』 に掲載されていたことです。
 
*     *     *

1975年、元ビートルズのメンバーとしては初めての日本公演を発表したポール・マッカートニー&ウイングス。1966年のビートルズ公演と同じ武道館で、11月19日、20日、21日の3公演が予定されていた。『ミュージック・ライフ』の編集長をしていた私は、事前取材をして来日記念の特集号を出版するためにオーストラリアへ飛んだ。ウイングスは10月29日から14日まで、オーストラリアの主要都市で全10回のコンサートの真最中だった。今でこそなじみ深い国だが、75年に『ブリスベン』 とか『アデレード』とか、はあっ?と思うような都市で、同行したピーター・バラカン氏も「英国をちょっと田舎にしたみたいな国」と表現していたほどだ。

取材チームはシンコーミュージックの国際部で働いていた前述のバラカン氏、長谷部宏カメラマン、東芝レコードのディレクター、石坂敬一氏らの合計4人のユニットだ。11月1日、私たちはわきあがる興奮をおさえきれないまま、ウイングス一行に合流した。マネージャーのブライアン・ブローリー氏やオーストラリアEMIの広報スタッフが、バックステージ・パスや撮影許可証を用意してくれ、私たちはウイングスと同じホテルに宿泊し、次第にメンバーとも接触する機会が増えた。

ポール一家は子供連れで、ウイングスはエンジニア、ローディー、衣装、メイク、ケイタリング、セキュリティ、それにポール一家のナニー(子守り)など、合計100人に及ぼうかとも思える大所帯だ。大勢のローディーたちを束ねるマネージャーもいたほど。子供たちの中に、のちにステラ・マッカートニーとして有名になる少女もいた模様だ。ハンブル・パイの項(連載第1回)でも書いたが、ハンブル・パイで働いていたローディーがふたり、ウイングスのエンジニアとして参加しており、私たちは驚きの再会を喜び合った。そのひとりから聞いたのだが、「ポールは家族連れで行動するから、ローディーにも品行方正が求められ、えりすぐりのスタッフしか採用しない」とのことだ。

キーボードのエンジニア担当のロッキーは、マンティコア・レコードのスタッフで、普段はEL&Pのキース・エマーソンと仕事をしている。「EL&Pと行動しているときとは勝手が違ってね。彼らとツアーをするときは酒もガブガブ飲むし、ワルイこともいっぱいできるけど、ポールと仕事をしていると、おっと今は違うバンドと働いているんだとブレーキがかかる。おかげで毎日、健康でいられるよ」と苦笑していた。


(以下、写真はすべてタップ/クリックで拡大できます)

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11月1日、パース・エンターテインメント・センター公演
 
ポールとリンダとのインタビューは後日、セッティングしてくれるというので、私は積極的にメンバーたちと仲良くなろうとつとめた。ポール一家は子供もいっしょということもあり、あまりホテルの部屋から出ることはなかったが、11月は夏のオーストラリアで、メンバーとプールで遊んだり、バーで飲んだあと地元のディスコにくりだした。独身組はジミー・マカロック(ギター)とジョー・イングリッシュ(ドラム)で、ジミーとは特に仲良くなった。ジョー・イングリッシュはアメリカ南部の出身で、ウイングスを去ったあと、なんと元オールマン・ブラザーズ・バンド(現ローリング・ストーンズのサポート・キーボード奏者)のチャック・リーヴェルと “シー・レヴェル” というサザン・フュージョン・バンドを結成するのだが、このときは知る由もなかった。

ディスコが閉まるとホテルに帰り、誰かの部屋にそれぞれがアルコールのボトルを持ち寄って、真夜中のミニ・パーティが始まる。コインをどこまで遠くに投げられるかとか、他愛もないゲームをしたり、ジミーがギターをポロンポロン鳴らし、レッド・ツェッペリンやザ・フーの曲をハミングしたり、『イエスタデイ』 に勝手な歌詞をつけてみんなで笑いながら歌ったりしていた。

ジミーとジョーは「日本語を教えてほしい、女の子を誘うときは何と言えばいいの?」とか、「僕たちが東京の街を歩いていたら、みんなわかるかなあ?」とか質問して私を困らせる。ジミーはあまりアルコールを飲まず、ペリエを飲んでいた。
ウイングスのコンサートは1万人クラスのアリーナで、アコースティック・セットをはさんで2時間半にも及び、ビートルズの曲も織り交ぜながらオーストラリアの観客を熱狂の渦に巻き込んだ。発売されたばかりの『Venus and Mars』からも名曲が演奏され、クライマックスは11月13日にメルボルンの野外劇場に1万4,000人を集めたラスト・コンサートだった。南十字星が輝く星空の下でポールもリンダも、もちろんウイングスも、星に負けない美しい輝きを放っていた。

しかし、このラスト・コンサートが文字通り『ラスト』になる事件が11月11日に起こっていたのだ。

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最初の2枚は11月2日、パースのコテスロー・センターでの記者会見。続く2枚は11月4・5日のアデレード・アポロ・エンターテインメント・センター楽屋での『ミュージック・ライフ』取材時の様子。石坂敬一さん、ピーター・バラカンさんの顔も見える。

ブリスベンに滞在中、この日はオフでポール一家がコアラやカンガルーを見に動物園に行く予定だから、ハルコもいっしょにと、マネージャーが配慮してくれて、私もわくわくしながらロビーで待っていた。しかし約束の時間になっても誰もロビーに現れない。同行予定の地元のジャーナリストたちも、おかしいぞ、と騒ぎ始めた。するとマネージャーの秘書から私に呼び出しが入った。指定された部屋に入ると、違う、これじゃない、というただならぬ雰囲気だ。

動物園に行くはずのポールがソファに腰かけていた。ブローリー氏の口から出たのは悪夢のような言葉、「ハルコ、残念ながらポールは日本に行けなくなった」。ポールは彼のことばをじっと下を向いて聞いている。「実は二日前にポールの日本へのビザが『取り消される』という情報を入手し、真実を明らかにするために弁護士らと奔走していた。しかし、ビザの取り消しは本当だった。3年前に自宅の農場に野生の大麻が生えていたのをとがめられ、100ポンドの罰金に処せられたことが明るみに出たため、日本の外務省が一度は発行したビザを取り消したのだ」

ポールは少なからず興奮というか気色ばんでおり、「きみの国に行けなくなったよ、どうしてくれるんだ!」と小さな声でうらめしげに言う。ブローリー氏は「ポール、ハルコは日本の政府の人じゃないよ」となだめられ、ポールの顔にあのやさしいスマイルがもどった。「すまない、あこがれていた日本に行けないなんて、この気持ちをどこにぶちまければいいのか、つい日本人のきみにあたってしまった」。そう言いながらポールはパスポートを見せてくれた。国際人らしくさまざまな国のスタンプが押されたパスポートに、ロンドンの日本大使館が発行した9月15日付のビザがきれいに押されている。

「ほら、これで再び日本で公演できるという期待で胸がたかなった。日本は9年間、ずっとあこがれの国だった。今度のツアーの本当の目的は日本公演なんだ。リンダもウイングスのメンバーも、日本の観客の前で最高コンサートをしようと熱意まんまんだ。それなのに、過去の些細な罪を理由に入国が拒否されるなんて。現在の僕は妻と3人の子供たちに囲まれて、ごく当たり前の家庭人としての生活をおくっている。この僕が日本に行って、どんな害を与えるというのだろうか?」

ポールはこぶしを胸の前でふりながら、うるんだ声で話した。その口調があまりにも熱っぽくなりすぎたのを心配したブローリー氏が、「ポール、そろそろ動物園に行く時間だよ。子供たちが待っている」と静かに言った。ポールはうなずいて部屋を出たが、ドアのところで振り向いて「でも、まだ何パーセントか希望が残っているよ」とつぶやいた。

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ウイングスは11月10・11日、公演のためブリスベンを訪れる。公演前、コアラが飼育される動物園ローンパイン・コアラ・サンクチュアリを家族で訪問。

ポール、リンダ、そして子供たちは動物園に行き、コアラや蛇とたわむれ、長谷部カメラマンがその様子を撮影した。しかし、私や石坂氏は部屋にもどると電話にかじりつき、日本への報告に必死になった。当時はまだオペレーターを通しての国際電話だったため、ひどくイラついたのを記憶している。日本でもすでにウイングス公演中止のニュースが流れていたらしく、編集部員たちも知っていた。

メルボルンでの公演後、地元のメディアの取材が終わったのは日付が変わるころだった。リンダがバックステージの入り口に立っている私のところにとんできた。「ハルコ、今日のステージはどうだった?気にいった?」と尋ねる。「リンダ、今夜もすばらしかったわ。これで最後だと思ったから、いつもより集中して聴いていたわ」。リンダの反応は私を動揺させた。「えっ、最後ですって? なんてことを言うの。私たちは東京へ行ってコンサートをするのよ。あなたも見にくるはずよ。だから最後ではないのよ」。私はリンダの顔を見た。天使がそのまま大人になったような無邪気な笑顔。この人は故意にトボケているのだ。別れの悲しみを打ち消すために。

「ハルコ、私たちは必ず日本に行くわ。今日はさようならを言うのではなく、また会いましょうって言う日よ」。私は目頭が熱くなり、気がついたらリンダとしっかりハグしあっていた。リンダの赤いブラウスに、涙がこぼれた。そこにポールもやってきた。彼は冷静さをとりもどしたようだ。「ハルコ、今は泣くときじゃない。幸運にも僕たちのコンサートを見た日本人として、その様子を雑誌に書いてほしい」と、赤ん坊をあやすように言った。

ジミーやデニー・レーンや、友だちになったレーン夫人たちともハグしあって別れを惜しんだ。2週間という長いあいだ行動を共にして、ミュージシャンとジャーナリストという関係以上の、ロックを愛する者同士のささやかな精神的な交流あったと信じたい。それを裏付けるように、私は1980年のウイングス公演に際して、彼らのパブリシスト(レコード会社やプロモーターから独立したポールのマネージメントが指名した広報担当)として働くことになるのだが、このときも『事件』は起こり、そのことは別の機会に書くとします。

私たちはメルボルン公演の翌日、オーストラリアを去った。そのとき、ブローリー氏からポールのメッセージ・ビデオを託され、それは日本のテレビで何度も放映された。

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この豪州ツアーでの最後の公演地メルボルンでは11月13・14日の2回の公演。編集部は13日の公演を撮影し、14日には帰国の途につく。

そして、ジミー・マカロックは1977年にウイングスを脱退。関係者から漏れ聞いた話だが、ポールとの関係があまりいいとはいえなかったそうだ。短期間、スモール・フェイセスやワイルド・ホーセズに参加したが、1979年9月27日、ドラッグの過剰摂取が一因で急逝した。26歳という若さだった。

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(★)

1979年、フリーランスとして働いていた私は、先にも書いたように80年1月のウイングスの日本公演のパブリシストの使命を果たすべく、12月に打ち合わせのためロンドンに行きコンサートを見た。楽屋でブローリー氏が「ハルコに会いたいという人がいる」と、小柄な中年の男性を連れてきた。ウイングスの楽屋にはふさわしいとは言えない身なりの男性だ。「この人はジミー、あのジミーの父親だ」。私は息をのんだ。アルコールのにおいのする男性、パパ・ジミーはなまりの強い英語で私に言った。

「あなたがハルコだね。息子から『日本人のジャーナリストと友だちになった、ロックが好きないい人だよ』と聞いていた。これがあなたかね」と、ポケットからしわだらけの写真を取り出した。もし周りに人がいなかったら私はその小柄な男性を抱いて号泣していたかもしれない。彼が見せたのは、シドニー湾をクルーズしたときにジミーが撮った私のスナップ写真だった。私は彼がいかにすばらしいギタリストだったか、またオーストラリアでの2週間がどんなに楽しかったかをパパ・ジミーに語った。

それからパパ・ジミーも2010年に亡くなったという話を聞いた。わずか26歳で才能あふれる息子を失ったジミーは、そうやって息子が生きた証(あかし)を探し求めていたのだろう。このとき、私は直感的に、ポールのマネージメントが何らかのかたちで父親の生活を支援していたのでは、と思った。天才的なギタリストでありながら生き下手だったジミー・マカロックの笑顔の下に隠された悲しみを見抜けなかったことを、今も悔いている。


※編註:公開後、水上さんよりパパ・ジミーの正確な他界年が判明したとご連絡いただき、該当部分を修正しました。
水上はるこ プロフィール

みなかみはるこ。元『ミュージック・ライフ』『jam』編集長。79年にフリーとなる。80年代の夏、ロック・フェスティバルを追いかけながら欧州を放浪。パリ、ブリュッセル、ロンドン、モスクワ、サンフランシスコ、ニューヨークなどに居住。19冊の本を出版。20冊目はロック小説『レモンソング・金色のレスポールを弾く男』(東京図書出版)。
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