最低で最高のロックンロール・ライフ

連載 水上はるこ・元ML編集長書き下ろし


第3回
ブルース・スプリングスティーン、1974年、ニューヨークの夏

1975年10月16〜19日、西ハリウッドのロキシーで4日連続公演。このうち17・18日は1日2回公演だった

水上はるこさんによる書き下ろし原稿でお送りしている連載「最低で最高のロックンロール・ライフ」は、今回で3回目。水上さんはかつて弊社で『ミュージック・ライフ』編集長を務められ、関わった雑誌は『ML』ほか『ぷらすわん』『jam』『ロックショウ』など。皆さんも必ず誌面でそのお名前をご覧になっていることでしょう。その後も現在に至るまで国内外でロックに関わり続け、数多くのアーティスト/グループの現場に携わってこられました。

この連載は、そんな水上さんが『ミュージック・ライフ』世代の方たちに向け、主に70〜80年代──編集部/編集長〜フリーランス時代に「じかにその目で見た」「経験した」記憶・体験をお書きいただこうというもの。水上さんが3回目に取り上げるのは、ブルース・スプリングスティーンです。間も無く最新作『レター・トゥ・ユー』も発売されますが、これはそんな彼との46年前のお話。

ブルース・スプリングスティーン、1974年、ニューヨークの夏

pic : Lynn Goldsmith
文/写真◉水上はるこ 撮影◉長谷部 宏(★)・小嶋秀雄(☆)/ML Images/シンコー・ミュージック
Text : Haruko Minakami   Pix : Koh Hasebe(★), Gutchie Kojima(☆)/ ML Images / Shinko Music
 
最初に明記しておきたいのは、1回目のハンブル・パイ、2回目のポール・マッカートニー&ウイングスと異なり、私はブルース・スプリングスティーンと知り合いでも友人でもないし、楽しい数日間をいっしょに過ごしたわけでもない。ただ、1974年、同じ場所で同じ空気を吸い、同じ風景を見、同じ夏を体験した、というだけのミュージシャンとジャーナリストの関係にすぎない。

なお記事の一部は『jam』、一部はソニーミュージックから2010年に発売された『闇に吠える街』のボックスセットのライナーノーツからの引用である。
 
*     *     *

1974年の春のこと、シンコー・ミュージックの一社員だった私は、突然、ニューヨークに住みたいと強く願うようになった。話が複雑になるので簡単に書くと、シンコー・ミュージックに《再入社》をしたものの、『ミュージック・ライフ』編集部には配属されず、独自の雑誌や単行本を編集していた。それはそれで充実した毎日だったが、当時の社長に直接、ニューヨークに行きたい、とかけあった。なんと簡単に受理され、「給料だけは払い続けるからそれで生活しなさい」という条件でニューヨーク遊学が認められた。当時の社会状況からは考えられない、なんというホワイトな会社だったのであろうか。

3月9日、まだ春浅い日、私はニューヨークに着いた。マンハッタンの71丁目の小さなスタジオ・アパートを借りた。現在の価格からは信じられない月100ドルの家賃だ。のちに有名になる『ダコタハウス』が72丁目にあり、治安も悪くない地域で、セントラル・パークと地下鉄の駅まで共にワンブロックという立地の良さ。80年代からオールマン・ブラザーズ・バンドが毎年コンサートを行なったビーコン・シアターは3ブロック先の場所にある。1週間もするとニューヨークの地理にも慣れ、ポケットに10ドルをつっこみ、地下鉄でグリニッチ・ヴィレッジまで行き、アーティストのたまり場として有名な『フィガロ』で特大のティラミスを食べながら3時間ねばり、日が暮れると『CBGB』や『クラブ82』にライヴを見に行った。当時のチケット代はわずか3~4ドル。帰りの地下鉄代、25セントだけを残して、真夜中までニューヨークを探検した。
当時住んでいた71丁目のアパート(現在)

 

1974年の夏の夜、ニューヨークをさまよっていればブルース・スプリングスティーンかパティ・スミスに遭遇する確率は非常に高く、運が良ければふたりに同時に出会えた。日本のレコード会社が紹介状を書いてくれ、アメリカのレコード会社にも出入りをするようになった。CBSの広報担当のエド・ナハとは特に仲良くなり、それから6ヵ月の間、さまざまなイベントの招待券を手配してくれた。エドはカンサス(バンド)のレセプションが『ボトムライン』で行なわれるからと招待状をくれた。5月くらいだったと思う。ボトムラインはヴィレッジの「Mercer」と4丁目の交差点のあるクラブで、その年はボニー・レイット、ジャクソン・ブラウン、アル・スチュワートなどがブッキングされて、ロック・ファンにはお馴染みの場所だ。300人も入れば満員になるサイズだが、音響やステージの近さも申し分ない。

カンサスのレセプションの夜、カメラマンたちがとりわけ群れている場所があった。入って左手にあるバーカウンターに座っていたオリーブグリーンのタンクトップの男、一目でブルース・スプリングスティーンだとわかった。当然だ。彼の2枚目のアルバム、『青春の叫び』(原題『The Wild, the Innocent & the E Street Shuffle』)のジャケットそのままの髭面で、トレードマークのタンクトップに、多分、コンヴァースのスニーカーとジーンズを穿いていたからだ。すでにある種のオーラをまとっていた。逆三角形の顔、鋭角の肩の痩せた男。

私のアパートの窓辺においているラジオはWNEWにダイアルが合わせてあり、繰り返しブルースの曲が流れていた。時には「7月4日のアズベリー・パーク(4th of July, Asbury Park[Sandy])」、時には「ロザリータ(Rosalita[Come Out Tonight]」。そしてDJたちは叫んでいた。「いいかい、次に来るのはブルース・スプリングスティーンだ!」

ボトムライン、CBGB、クラブ82に通いつめ、その時期に出演していた多くの若いバンドを見る幸運に恵まれた。ボトムラインはコンサートがない日でもクラブとして営業していたから、私は1ドルのコーラを飲みながら、出入りするミュージシャンや業界関係者と親交を深めた。トッド・ラングレンがベベ・ビュエルといた、エリオット・マーフィーは常連だった、そしてブルースも3回ほど見かけたことがある。髭面とは裏腹にやわらかい笑みを浮かべ、友人やジャーナリストたちとビールを飲みながら談笑している。ボニー・レイットが出演した夜、ブルースは多分、ボニーより目立たないようにと、クラブの隅にひっそりといた。しかし、ボニーがステージを降りて真っ先に駆け寄りハグをしたのがブルースだったから、目立たないようにという配慮も台無しだ。

ブルースはいつも男たちに囲まれていて、話す機会はなかったが、私が音楽関係者といるのを見て、業界人だと察しがついていたはずだ。ある夜、ボトムラインを出るとき、勇気を出してサヨナラを言いにバーカウンターに行った。「ハロー、ブルース、あなたの曲が好きよ。いつもWNEWで聴いているわ」。ビールとタバコの匂いがする男は、私のジーンズに軽く手を添えてほほ笑んだ。「やあ、ベイビー、8月にセントラル・パークでコンサートがあるから見に来てくれ」。それから10年後に「ダンシング・イン・ザ・ダーク」を歌いながら客席の女性に手を差し伸べるときと同じように「ヘイ・ベイビー」とハスキーな声で言った。カメラマンたちが「あの女は誰だ」と言いながらシャッターを切っているのが分かった。それがほぼ半世紀にわたる、私とブルース・スプリングスティーンとの最初の出会いだった。

エド・ナハは「第二のボブ・ディランといってもいいすごい才能の歌手だけど、まだターンテーブル・ヒットなんだ」と言いながらチケットを渡してくれた。ターンテーブル・ヒットとは、DJたちが張り切ってかけている割にはいまひとつ人気が出ないという意味だ。セントラル・パークでは夏の期間、『シェーファー・ミュージック・フェスティバル』という野外コンサートがほぼ週末ごとに行なわれている。74年はリンダ・ロンシュタット、B.B.キング、ピーター・フランプトン、エアロスミス(前座はロリー・ギャラガー)、マハヴィシュヌ・オーケストラ、バッド・カンパニー、ブラッド・スウェット&ティアーズ、ユーライア・ヒープなどが出演し、実に豊饒な年だった。中でも有名なのが、7月1日に出演したキング・クリムゾンで、近年になってこの時期のラスト・コンサートとしてライヴ盤が発売された。

8月3日、乾いた風がセントラル・パークの木々をゆらし、摩天楼に夏の太陽がゆっくりと沈もうとするころ、ブルースはターンテーブルの英雄からニューヨークのアスファルトに軟着陸をした。3千人の観客はどよめいた。ボトムラインの暗闇でビール瓶をにぎっていた右手がテレキャスターを力強く弾き、細い腰がリズムをとりながら揺れ、観客は「サンディ」のリフレインを合唱した。私はロック・ジャーナリストやニュースキャスターたちと同じ前から3列目に座り、あんなに痩せて見えたブルースがステージでは男性的なたくましさを醸し出していたのに驚いた。あの夜、「サンディ」のせつないフレーズを歌った誰もが、ブルースの時代が始まったことを実感した。

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1975年10月、西ハリウッドのロキシーにて (★)

私は9月7日にエアロスミスのコンサートを見届け、しばらくして帰国した。ブルースはいつからか『ボス』というニックネームで呼ばれるようになるので、ここからはボスと書くことにする。翌75年に発売した『明日なき暴走』(『Born to Run』)でボスの人気は不動のものになる。ニュージャージーのさびれかけた町からアメリカを代表する歌手になったボスの物語は、若者たちの心をとらえた。青春の甘酸っぱい思い出、父親との軋轢、都会へのあこがれ、ロックを通してボスは等身大の自分を語り続けた。「僕はこうだ、で、きみはどうなんだ?」と。
私は1978年の伝説となったボスのマディソン・スクエア・ガーデンでのコンサートを見た幸運な一人だが、驚くべき場所で行なわれたボスのコンサートを見ている。なんと『ウエスト・ポイント陸軍士官学校』でコンサートを行なったのだ。読んで字のごとく、アメリカの軍人、しかも指導者となる高級士官を養成する大学で、学力レベルも高い名門大学だ。当然、学生たち全員が熱烈な《愛国者》であり、思想的にも右寄りであるのは明らかだ。リベラルを自称するボスがなぜそんな場所でコンサートを行なったのか。立派な講堂に集まったのは制服に身を包み、髪をきれいにかりあげ、キリリとした表情の体格のいい士官候補生ばかりである。女性もいたかもしれない。とにかく普段はロック・コンサートに行く機会がないであろうウエスト・ポイントの若者たちは、マディソン・スクエア・ガーデンの観客に劣らない熱狂でボスを迎え、ボスはフル・セットを演奏しきった。そこでのコンサートは余り語られることはないが、ボスは分け隔てなく、すべての思想のロック・ファンに自らの音楽を聴いてほしいと望んで実現したのだと想像する。

そして1978年にマディソン・スクエア・ガーデンを5日間、満員にするコンサートを行なったある晩、ボスとのインタヴューが実現した。75年に『明日なき暴走』を発売し、78年に『闇に吠える街』までの期間が空いているのは、マネージャーと著作権などをめぐって法廷闘争をしていたからだ。ロック・ジャーナリストで「私はロックン・ロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーンだ」という記事を書いたジョン・ランダウが新しいマネージャーになっていた。1973年にデビューして以来、日本のジャーナリストのインタヴュー依頼には一度も応じたことがない。時期的に日本のメディアにもサービスをしなければならないと感じていたのだろう。

これから友人たちと飲みにいくから1時間だけ、と言う。いや、こんなスーパースターが1時間も時間をさいてくれるなんてこれ以上何を望もうか、と楽屋で向かい合った。「Mercer」と4丁目の《角》に生息していた若くてしなやかなけだものは、髭をそり、香り立つ美しい青年になっていた。
『jam』1979年1月号
同号目次
インタヴュー全文は1978年に発売された雑誌『jam』の創刊号に載っているが、ここでは印象的だった発言をかいつまんで書いておく。

「観客にたいする責任感みたいなものも、このごろは意識するようになった。ある晩のコンサートが終わったあと、楽屋に紛れ込んできた13歳くらいの少年が、ぼくにこう言った。『ぼくは前から50列目くらいの席に座っていた。でもどうしてもブルースをそばで見たくて前の方に行きかけたけど警備員に押し戻された。それで椅子の下をくぐりぬけてきたんだ。50個くらいの椅子の下を這って、ぼくはブルースを目の前で見た』。ぼくはそんなファンのために、最高のコンサートをやりたいと努力している」

「10代の終わりのころの体験というのは、すべてが強烈だ。女の子のこと、両親や友人、これがぼくの歌の原点と言っていい。これまではいわゆる都会の生活を歌ってきたけど、ちょっと田舎にも興味が出てきた。田舎のゆったりとした生活に憧れているというわけではなく、小さな町には小さな町なりの生活があり、それはそれでドラマに満ちている。“サンダーロード” は、田舎をテーマにした曲だと言えるだろう。もともとぼくが少年時代を過ごした環境にもどっているわけだ。目的もなく車を走らせ、郊外を走りまわるのも好きだ。ネバダ州のワイルドさみたいなものも、最近は気になっている」

私はブルースがデビュー時から、ダークネス(闇)とか夜とか、そんな言葉を好んで歌詞に使うことに興味を持っていた。

「ぼくはいろいろな意味を込めている。レコードで表現したかったのは、時には〈夜〉は〈自由〉という意味だし、また、時には〈罠〉という意味でも使っている。『明日なき暴走』のときは、逃げる、脱出する、という雰囲気で歌っていた。今は暗闇、あるいは罠から逃げることはできない、という雰囲気だ。何かを乗り越えなければ逃げられない。その何かを乗り越えるための知恵とエネルギーはまだない。だから逃げるのをやめてUターンし、恐れていた物事と対決しようとする決心ができた。そうしないといつまでも脅えたうさぎのように逃げ回るばかりで、いつかは疲れて獣の餌食になるだけさ」

インタヴューの受け答えそのものが文学的なメタファーであり、詩なのだ。

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1985年4月初来日。東京は代々木第1体育館で5公演。(☆)

私はそれからも何回かボスのコンサートを見る機会に恵まれた。85年の日本公演の初日(招待券)以外はすべてチケットを購入した。ある夕方、前の仕事が押して開演から20分後くらいに代々木体育館に着いた。雨が降っていた。会場の表に50人ばかりの人たちが、傘をさして群れていた。あ、もしかしたら開演が遅れて、この人たちは今から入場する人たちだ、と思って私もその群れに入り、はっと気がついた。ボスのコンサートはすでに始まっており、彼らはチケットが入手できず、せめてもと、会場から漏れてくる音楽を聴いていたのだ。この時ほど職権でチケットを購入したことを申し訳ないと思ったことはない。
2000年代にアメリカに住んでいたとき、2004年に『Vote For Change - 変革のための選挙』と題された一連のコンサートが約1ヵ月にわたって、アメリカ各地で催され、ボスとEストリート・バンドはそのトリを務めた。私はワシントンDCで行なわれた10月11日のコンサートをMCIセンターという大きなアリーナで見た。ボニー・レイット、ジャクソン・ブラウン、デイヴ・マシューズ・バンド、ジェイムス・テイラー、パール・ジャム、ジョン・フォガティなど、そうそうたるビッグ・ネームがおよそ6時間にわたって繰り広げた大規模なもので、収益金は「Vote For Change」のキャンペーンのための基金として寄付された。初めて見たデイヴ・マシューズやパール・ジャムにも驚かされたが、久しぶりに見たボスのパワーはどの出演者よりもすばらしかった。年齢的にも円熟し、Eストリート・バンドも最高のメンバーで、74年にセントラル・パークで見たあの渇きにも似た叫びともまた違う魅力にあふれていた。

最後にボスを見たのは、2009年1月18日、オバマ大統領の就任式前日に催された「私たちはひとつ - We Are One : The Obama Inaugural Celebration at the Lincoln Memorial」という、これまた6時間にも及んだビッグ・イベントでのことだった。ワシントンDCのナショナル・モール(リンカーン・メモリアル)に40万人もの人々がつめかけた。ワシントンDCの郊外に住んでいた私は朝の7時に起き、8時にモールに着いた。持って行ったのはペットボトル1本、新聞紙、ポケットに20ドル。その日はことさら寒い日で、零下8度だったとあとで知った。早い時間に着いたので前の方に座ることができた。アフリカの血をひく初めての大統領の誕生を祝して全米から人が集まり、オバマ次期大統領と家族も臨席していた。ボスはニューヨーク同時多発テロの犠牲者を悼んで作曲した「ライジング」をゴスペル隊をバックにアコースティック・ギターでソロ演奏し、次々にステージに上がるミュージシャンや俳優などを紹介しながら、陰でこの一大イベントを支えた。

1974年にボトムラインでボスに会ってから35年もの歳月が流れ、社会も、政治も、文化も、音楽も、人々も変わった。このときボスは59歳。都会の夜の彷徨を熱く歌い上げた青年は成熟した大人のたたずまいを見せ、最後に90歳になるフォーク歌手、ピート・シーガーと共に、アメリカのもうひとつの国歌ともいわれる「This Land Is Your Land」を歌い、ほとんど一日をついやした催しをしめくくった。これらの映像は、ネットでも見ることができるので、ぜひご覧になっていただきたい。

この原稿を書いている2週間前の9月10日、ボスは新曲「Letter to You」のミュージック・ビデオを公開した。70歳になったボスの声は今も力がみなぎり、すべてを包み込む慈愛に満ちあふれ、私はあの美しかった夏の日々を思い出しながらモノクロのこの動画を見ている。
Bruce Springsteen
Letter To You (Official Video)

追記:『ボトムライン』は2001年の同時多発テロの余波で閉店に追い込まれた。場所が立ち入り禁止区域に指定され、それが解かれてもブッキングが困難になったからだ。

水上はるこ プロフィール

みなかみはるこ。元『ミュージック・ライフ』『jam』編集長。79年にフリーとなる。80年代の夏、ロック・フェスティバルを追いかけながら欧州を放浪。パリ、ブリュッセル、ロンドン、モスクワ、サンフランシスコ、ニューヨークなどに居住。19冊の本を出版。20冊目はロック小説『レモンソング・金色のレスポールを弾く男』(東京図書出版)。
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