最低で最高のロックンロール・ライフ
第4回
アインシュツルテンデ・ノイバウテン、そして石井岳龍監督の『半分人間』
アインシュツルテンデ・ノイバウテン、そして石井岳龍監督の『半分人間』
話は1980年にさかのぼる。気候がよかった記憶があるので春か夏だったと思うが、私はハンブルグにいた。なぜハンブルグにいたのか? 好きなバンドを追いかけていたか、ロック・フェスティヴァルをはしごしていたか、まあそんなところだ。レコード店で教えてもらったロック・ファンが集まるカフェ・バーに行き、ぼんやりしているとドイツ人の若者に話しかけられた。「どこから来たの?」「日本」「日本のロック・シーンってどんな感じ? ドイツのロック・バンドって有名?」。私が知っていたのはスコーピオンズとクラフトワークくらいだった。「ぼくもバンドやっている。有名じゃないけどね」。バンド名を言ったが覚えていなかった。精悍な顔立ちで背の高い青年と1時間ばかり世間話をし、最後に「ぼくの名前はマーク・チャン。4分の一、中国の血が入っている。中国や日本の文化に興味があるんだ。もしよかったら日本の音楽雑誌を送ってくれないか?」と、店のコースターの裏に住所を書いて渡して去った。
帰国してから音楽雑誌を数冊送ったが、返事はなかった。
当時の西ベルリンはそこから東にずっと広がる旧ソ連圏、共産国へのショウウインドウの役わりを果たしており、大学生への奨学金が充実し、税制でも優遇され、政府が文化や芸術を支援するなど、魅力のある都市として知られていた。ある晩、大きな一軒家で《詩の朗読会・ポエトリー・リーディング》が催され、ハッパが吸い回される中、何人かの詩人たちがいろいろな言語で荘厳に、ときには感情的に詩を朗読していた。そんな中、「ハルコ、ヘイ、ハルコ」と呼ぶ声に振り向くと、ハンブルグであったマーク・チャンが笑顔で立っていた。一段と凛々しくなったマークは「お礼が遅くなったけど、雑誌をありがとう」と言い、1年ぶりの再会を喜び合った。
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ギグのあと汗をかいて髪を後ろになでつけたマークと再会したが、もうこの時点で私の目には星がいっぱいの状態になっていた。私の出現に彼も驚いたようすだった。ここまで書いてきて読者の方はお気づきのように、このアブワーツがのちのアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのひな型となったバンドである。ハンブルグ、西ベルリン、ロンドンで出会ったマークは、それからしばらくしてブリクサ・バーゲルトらとアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンを結成し、アブワーツと並行して音楽活動をしていた。初期のノイバウテンには先にでてきたマラーリアのグートルン・グートもキーボードで参加していた。年が明けて1983年3月7日、ロンドンの《ライシアム》でバースデイ・パーティー(ニック・ケイヴが在籍していたオーストラリアのバンド)の前座として演奏し、英国中のインディ・レーベル関係者たちが集まったとさえ言われている。『サウンズ紙』のミック・シンクレアというライターはこう高評している。
『ノイバウテンのコンサートはすばらしいインスピレーションだった。1965年にローリング・ストーンズやザ・フーを見るのや、1977年にクラッシュやセックス・ピストルズのコンサートを見るのと同じだ』
私はそのころ『ロンドンに行きたい』(1983年)、『青春するロンドン』(1984年、共にシンコー・ミュージック刊)のため、ロンドンのロック・シーンを取材してまわっており、ソフト・セルのマーク・アーモンドを通じて《サム・ビザール(Some Bizzare)》というインディ・レーベルをたちあげたスティーヴォという、弱冠はたちの風変わりな若者と友人になった。やんちゃ坊主のスティーヴォではあったが、ソフト・セル、ザ・ザ、スワンズ、フィータスなどとレコード契約をし、マネージメントも兼ねていた。私はロンドン滞在中、彼のオフィスの一角を使用させてもらい、ときには大きな家のカウチに泊まることもあった。心配はご無用。彼の家はアーティストたちの宿泊所も兼ねており、マット・ジョンソンやスワンズのマイケル・ジラがいつも居間でレコードを聴いたり作曲をしていた。そのスティーヴォがノイバウテンの英国での発売権を獲得したのだ。彼らの名声はドイツからヨーロッパ中に広がり、《インダストリアル・ミュージック》という新しいスタイルを生みだし、オーストラリアのSPK、ベルギーのフロント242(Front 242)などもその分野に参戦する。私とノイバウテンはそんな風に不思議な運命に導かれて、やがて他のメンバーたちとも親しくなる。マネージャーも兼ねていたしっかり者のマークとの連絡は絶やすことがなかった。
翌日、朝食を食べながらジャン・ジャックにノイバウテンの話をし、カセットテープを渡した。彼はウォークマンで数曲聴き、「で、いつこのバンドを紹介してくれるんだ?」と言った。1984年の1月、ジャン・ジャック行きつけのロンドンにあるレストランでマークとムフティとの初対面が実現した。兄貴かぜをふかせるジャン・ジャック(写真右)が「もし、次のアルバムのプロデューサーが必要なら、ぼくがいるってことを忘れないでくれ」と言ったので、テーブルの下で彼の足を蹴飛ばした。
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彼らの3枚目のフル・アルバムとなった『半分人間』の発売直前に、初の来日が実現する。このときプロモーターがコンサート会場用に『廃墟求む』という新聞広告を出し、テレビのニュースでも取り上げられる社会現象ともなった。適当な廃墟が見つからず(消防法にひっかかった)後楽園ホールと大映京都撮影所での公演は、工事現場かと思わせる機材やコンクリート片でステージが覆われ、大成功のうちに終わった。この前年、西ベルリンに滞在していた映画監督、石井聰亙氏(現在名は石井岳龍)とブリクサが意気投合し、「日本に行ったおりにはぼくたちの映画を製作してほしい」との約束ができあがっていたそうだ。東京で再会した監督とブリクサは軽くハグし合い、100年前からの恋人たちのような雰囲気で映画の話が始まった。1985年、バブルの真っただ中である。公演が一段落ついたある夜、六本木のカフェであわただしく映画撮影の契約書が作成された。監督はすばやくクルーを集め、彼らはそんなことは朝飯前、という素早さで廃工場を探し出した。
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私は映画の世界にはまったく縁がなかったが、それからの1週間の監督とクルーの働きには瞠目せざるを得ない。全員、一日3時間の睡眠で、時間があれば工場のコンクリートの上で10分だけ仮眠をとり、監督は映像のイメージをつくるためウォークマンで『半分人間』を聴き続けていた。バンドもクルーが買ってきたコンビニの弁当を文句もいわずに食べ、一日8時間、廃工場で若い映画人と若いバンドが夢を紡ぎだしていた。だが、実際の現場は夢などというロマンティックな表現では語れない修羅場だった。終盤は高速道路上にドリルやハンマーを置いてのパフォーマンスを撮影。もちろん、これは立派な交通違反だ。ところがクルーたちは慣れた動作で、工事服を着てヘルメットをかぶり、コーンを置いて工事中を演出し、その中でノイバウテンが演奏するシーンが撮影された。男たちがひとつの目的に向かって疾走し、言葉が必要なくなるほどの一体感をだしていたのに、門外漢の私はただただ感動するばかりだった。新宿の高層ビルに囲まれた道路上でクランクアップし、メンバーたちが監督への感謝を込めて、道路にはいつくばって監督のもとまで行った(写真)。完成した映像『半分人間』は、今日に至るまで、どのように大金を投じたミュージック・ビデオも追従を許さない名作として、今もロック史、映画史で語り継がれている。
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カルト的な人気があったとはいえ、何十万枚もレコードが売れるわけではないので、仕事が終わり次第、ノイバウテンは日本を去った。最後の夜、マークとムフティはリボンのついた小ぶりな箱をプレゼントしてくれた。「ぼくたちのレコードの日本発売を仲介してくれたのと、撮影に無給で参加してくれたお礼だ」という。無骨な彼らにしてはずいぶんと気がきいたプレゼントだ。帰って箱を開いて驚いた。決して安くはないあるブランドのアクセサリーが入っていた。私は好奇心をおさえられず、そのアクセサリーをつけて包装紙を頼りにデパートに出向いた。アクセサリー売り場の女性が反応した。「あら、もしかしたら、それは数日前、外人さんが買われたものではありませんか?」「そうです。外人さんからプレゼントされました。なぜわかるのですか?」「数点ものだし、外人さんが『とてもすてきな女性に贈るからどれか選んでほしい』とおっしゃっていました」──私はトイレに駆け込んでギャン泣きした。
ブリクサ・バーゲルトの当時の人気はアイドルもかくやと思われるほどだった。京都での公演に向かう新幹線ホームに、プレゼントを持った少女たちが群がった。ブリクサはノイバウテンと同時に、ニック・ケイヴのバンドのメンバーでもあり、同年10月のニック・ケイヴ初来日時に同行していた。ブリクサから「ハルコ、今から女の子たちと飲みに行くから参加しないか?」と電話がはいり、ブリクサとニック・ケイヴという、世界で一番、磁場の強い飲み会に行った。かわいらしい女性たち10人くらいに囲まれて、ブリクサは得意げに「この人がハルコさんだよ。みんな知っているよね」と私より20歳も年下であろう女性たちに紹介した。もちろん、みんな私の名前くらいは知っていたであろうが、とても居心地が悪かったので、早々にそこをあとにした。それがブリクサと会った最後だった。
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ブリクサはこの年のうちに3度目の来日。11月のこの時はニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズのギタリストとして、東京2公演と京都・札幌でのステージをこなした他、弊社の洋服・雑貨を販売した店舗 “ダブル・デッカー” のオープン記念でニック・ケイヴらとともにサイン会にも応じ、「いや〜、サイン会は楽しかったよ。あんなに沢山の女の子とキスしたのは生まれて初めてだ(笑)」と語っていた。(☆)
アインシュツルテンデ・ノイバウテンは、それから30年後もメンバーは入れ替わったものの活動を続けている。マーク・チャンはビジネスの手腕をかわれて1996年からロンドンのソニー・ミュージック・インターナショナルの副社長を務めた。1980年にハンブルグで出会い、西ベルリン、ローマ、ロンドン、東京、それぞれの都市でいろいろな表情をみせてくれたマークやブリクサとの思い出は、あの高速道路でのシーンとオーヴァーラップしながら今も私の中にある。
みなかみはるこ。元『ミュージック・ライフ』『jam』編集長。79年にフリーとなる。80年代の夏、ロック・フェスティバルを追いかけながら欧州を放浪。パリ、ブリュッセル、ロンドン、モスクワ、サンフランシスコ、ニューヨークなどに居住。19冊の本を出版。20冊目はロック小説『レモンソング・金色のレスポールを弾く男』(東京図書出版)。
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