最低で最高のロックンロール・ライフ

連載 水上はるこ・元ML編集長書き下ろし


第5回
ジョン・ウェットン、40年間の片想い──74年、フェルト・フォーラムでキング・クリムゾンを見た夜、ベーシストと恋におちた

水上はるこさんによる書き下ろし原稿でお送りしている「最低で最高のロックンロール・ライフ」。本連載も第5回を迎えました。『ミュージック・ライフ』世代の方に向け、主に70〜80年代──編集部/編集長〜フリーランス時代に「じかにその目で見た」「経験した」記憶・体験をお書きいただいているこの連載、今回取り上げるのはキング・クリムゾン時代に知り合い、公私ともに親交のあったジョン・ウェットンです。

ジョン・ウェットンは1949年生まれの英国人ベーシスト/ヴォーカリスト。プロのミュージシャンとしてデビュー後間も無くキング・クリムゾンに加入。その後のUK、エイジアでの活動が特に有名ですが、セッション・ミュージシャンとしての活動も多岐にわたり、日本には何度も訪れています。しかし2017年1月、67歳で惜しまれつつ他界しました。

水上さんとジョン・ウェットンとは、『ミュージック・ライフ』編集長〜『jam』編集顧問時代も含め、仕事としての取材だけでなく、ミュージシャンといちファンとして、また奥さんも交えたプライヴェートな親交もあったせいで、思い入れもひとしおのご様子。今回はその始まりである1974年から最後に会った2007年にかけて、最も思い出深いミュージシャンの一人であるジョンに関するお話です。

ジョン・ウェットン、40年間の片想い──74年、フェルト・フォーラムでキング・クリムゾンを見た夜、ベーシストと恋におちた

文/写真◉水上はるこ 撮影◉長谷部 宏(★)、デヴィッド・タン(☆)、浅沼ワタル(*)/ML Images/シンコー・ミュージック
Text & Pix : ©︎ Haruko Minakami   Pix : ©︎ Koh Hasebe(★), ©︎ David Tan(☆)/ ML Images / Shinko Music


今から書くことはすべて事実である。当たり前のことだが、なぜこのようなことわりをいれるかといえば、ジョン・ウェットンが故人であり、反論できないからだ。私は取材以外の機会で頻繁に彼に会った日本人のひとりだと思う。そのため文章を書くにあたって、かなり抑制をきかせたつもりだ。ハンサムで優秀なミュージシャンと、彼に憧れるライター、それ以上でもそれ以下でもない。彼のプライヴェートな部分も見たり知ったりしたが、ロサンゼルスでの出来事以外は、すべて私の心の中に秘めておく。なお、ファンのあいだでは「ウェットン先生」とか「ウェットン」と呼ばれているが、私はジョンと呼んでいたので、この記事でもジョンと親しみをこめて書かせていただく。
 
*     *     *

私が1974年の3月初めにニューヨークに住み始めたことは、ブルース・スプリングスティーンの項でも書いた。しばらくするとレコード会社からコンサートのチケットやレセプションへの招待も届くようになる。アトランティック・レコードの広報担当のジェニー(仮名)から、「ハルコ、キング・クリムゾンのコンサートに行くでしょ?」と電話がかかってきたのは、5月1日のコンサートの一週間前だった。その電話は「行きたいでしょ?」、ではなく「あなたは行くべき」という雰囲気だった。その理由もあとで知ることになるのだが。「それからコンサートの翌日にインタヴューもするのよ」とたたみかけるように言うジェニー。私はアパートのベランダを走り回りたい気持ちだった。

すでに日本でイエス、EL&P、ピンク・フロイドのコンサートは見ているが、いよいよ大トリのキング・クリムゾンがニューヨークで見られる! そしてあの気難しそうなギタリストのインタヴューができる、なんてこった。5月1日、マディソン・スクエア・ガーデン内にある『フェルト・フォーラム』という、あまり聞いたことがない会場だ。今、調べてみると、古くはドアーズ、80年代にはメタリカやガンズ・アンド・ローゼズもそこでライヴを行なっている。MSGはメインの大きなアリーナ(コンサート以外にアイスホッケーやバスケットボールが行なわれる)だけではなく、娯楽施設であり、フェルト・フォーラムではテレビ番組の収録やコンヴェンションも催される由緒ある劇場だ。収容人数は2,000~3,000、ロビン・トロワーを前座においたキング・クリムゾンのコンサートは9時過ぎに始まった。まず驚いたのは、会場内にマリファナの匂いが充満していたことだ。えっ、キング・クリムゾンってそういうバンドとして捉えられているの?
60年代末から、日本ではプログレッシヴ・ロックは絶大な人気を得ていた。『ミュージック・ライフ』誌の人気投票では、3大バンドのミュージシャンたちが何の違和感もなくベスト・テンにランクされている。来日したイエスやEL&Pに接したときの彼らは、知的、を通り越して「哲学者」のような印象だった。私がキング・クリムゾンに対して抱いていたイメージは、その「哲学者」の最たるもので、意味不明の曲名、抽象的な歌詞、謎に満ちたジャケット、自己流を貫くリーダーのギタリスト、抒情的な「エピタフ」や「風に語りて」、「クリムゾン・キングの宮殿」や「21世紀のスキッツォイド・マン(ご承知のように当時は別の日本語訳がタイトルだった)」の壮大な、というか地獄の深淵を覗き見るかのような魔界の音楽だ。メンバーが何回か入れ替わったのは知っていたが、ジェニーが用意してくれた招待券はベーシストの真ん前で、私の小型カメラでもそこそこの写真が撮れるくらいの良席だった。そのベーシストについては何の予備知識もなかったが、立ち姿が美しく、何十回となく聴いていたグレッグ・レイクのヴォーカルより骨太で、ある意味で《色気》があり、時にはシャウトもするし、プログレのジャンルの神秘的な唱法とは一味違っていた。
水上さん撮影、1974年5月1日フェルト・フォーラムでのキング・クリムゾン。左端がジョン・ウェットン。

しかし始まって数曲で私は「これじゃない」感を覚えた。ヴァイオリニストは哀愁を帯びたメロディを紡ぎだし、メガネのギタリストはライトをさけて右端で黙々とカッティングしていた。そしてリズム・セクションのふたりが爆音でフェルト・フォーラムを揺るがしている。知った曲は出てこない。インプロヴィゼーションが始まると、これどうやって収拾すると?と延々と続く。やっと気が付いた。マリファナの匂いが充満している理由はこれだった。アメリカ人は《サイケデリック》なバンド、として見ていたのか。10分以内で終わる曲はない。最初の主題が演奏されると、誰かの楽器が勝手に走り出す。ほとんどジャズだ。だがこの爆音のなんと心地よいことか。多分、私も漂ってくるマリファナの匂いに酔っていたのだろう。何曲かはメロディがきれいな、ベーシストがせつなく歌う曲もあったが、いくらコンサートが進行しても「エピタフ」は始まらない。

King Crimson
『May 1, 1974 - Felt Forum, NYC』

2014年3月、配信でのリリース。現在は公式サイトで各曲の一部のみ聴くことができる。
Felt Forum New York United States

1. Fracture     
2. RF Announcement     
3. Easy Money     
4. Improv     
5. The Night Watch     
6. Dr Diamond     
7. Starless     
8. The Talking Drum     
9. Larks Tongues In Aspic Pt II     
10. 21st Century Schizoid Man
それから40年後、アメリカ公演のライヴ盤が発売になり、フェルト・フォーラムでの音質の悪いものも含まれている。「それらを聴いているから書ける」と言われても仕方ないが、とてつもなく長い、先にも書いたどのようなエンディングにもっていくのか、という曲があった。非常に奇妙な曲で、始まり方と終わり方では別の曲になっていた。ピンク・フロイドなどを聴いて、プログレでは「始まったときと終わったときが別の曲」というのは承知していた。しかし、ギタリストはひたすらギターの弦をチューニングし、ベーシストがメロディにもなっていない変拍子の不気味な音を出す。それが「スターレス」だったのだ。2時間近い長尺の最後あたりでやっと「21世紀(以下略)」が演奏され、悪くいえばぐちゃぐちゃの、良くいえばフリーダムな、主題以外はレコードで聴いたのとは全く異なる演奏だ。後半のギターとベースのユニゾンは圧巻だった。

私はこの日、ベーシストと恋におちた。

翌日、彼らが宿泊しているドレイク・ホテルでジェニーと落ち合った。彼女から聞いた話はにわかに信じがたかった。アメリカのメディアにキング・クリムゾンとインタヴューしないかと持ちかけたが、予想外に反応が鈍く、ニューヨークにきて間もない私にまで機会が訪れたというのだ。これは15年後にデジャ・ヴとなって繰り返される。話は飛ぶがUK時代に取材をしたときのこと。『jam』誌の1980年1月号に、ロンドンでのエディ・ジョブソンとジョン・ウェットンとインタヴュー記事にこのような記述がある。「私がインタビュー・ルームに入ると、心なしかほっとした表情だ。『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』のインタビューが直前にキャンセルされたという。ふたりともがっかりしたり腹をたてると同時に、英国の音楽状況がここまできてしまった、と心を痛めていたようだ」
水上さんが当時編集顧問を務めていた『jam』1980年1月号。水上さんはUK時代のジョン・ウェットンを取材、エディ・ジョブソンのインタヴューと2本立て・6ページの記事にまとめられている。下の写真4点(*)はその際のフォト・セッションより。

読み込み中.....

「ジェニー、ロバート・フリップってどんな人? 気難しいミュージシャン?」「いいえ、違うの。今からあなたが会うのはベーシストのジョンよ」。私はドレイク・ホテルの廊下がグルグルと回るのを感じた。あの立ち姿が美しい、まだあどけなさすら残る24歳の若きジョン・ウェットンとの初対面だ。カメラマンのデヴィッド・タンさんも後に「フォトジェニックな人だ」と表現したほど、アメリカ人にはないオーラをまとい、昨晩、あれほど熱演したとは思えない落ち着き。心地よいアルトの声で、「ヤー、ヤー」とほほ笑みながら答えるのが癖らしい。私が知っている英国コックニー訛りではない、柔らかいチャーミングなアクセントで話す。このときのインタヴューは「家庭の事情」で失われてしまった。幸いなことに軽くカールした髪の、若き青年の写真は残っているのでいかに魅力的なベーシストだったかを確認していただきたい。これらの写真は何度か『ミュージック・ライフ』に《ハンサムなミュージシャン》という肩書きで載ることになる。このとき、ジェニーがジョンに熱をあげ、取材が終わったあとも何とか彼と会いたいと画策し、「ハルコもいっしょに行くでしょ?」と約束させられ、パークレーン・ホテルのレストランで3人で食事をするという、願ってもない事態にまで発展した。彼が私の名前を正確に覚えていたのも、この食事デートがあったからだ。
それから数週間後、思わぬところでジョンに名前を呼ばれた。5月にクイーンが前座でモット・ザ・フープルがコンサートをしたのは、クイーン・ファンのあいだでは近年になって知られるようになったが、その会場でジョンと再会したのだ。あの笑顔で「ヘイ、ハルコ!」と呼ばれたとき、またもユリス・シアターのロビーがグルグルと回った。ロバート・フリップ以外のメンバー全員がそこにいた。それから40年後、ジョンが「ボヘミアン・ラプソディー」をカヴァーすることになるとは誰が想像しただろうか。

今もキング・クリムゾンの歴史上、名演奏のひとつとして語り継がれる7月1日のセントラル・パークでのコンサートには行っていない。多分、ニューヨークを離れていた時期だと思う。翌年、発売された『USA』を聴いたとき、奇妙なトリップにも似たコンサートの謎が解けた。まさに《『Red』へ至る道のり》の演奏であり、ジョンのベースとヴォーカルが24歳という若さで絶頂期に達したのが、皮肉にもフリップに苦渋の決断を強いた。
(☆)
次に会ったのは1976年にユーライア・ヒープのメンバーとなっていたジョンとの、ラウンドハウス・スタジオでの取材だった。この記事は『The Dig ジョン・ウェットン』に再録されているのでここでは触れないが、このときからすでに日本への憧憬が始まっていた。フリップが《琴》のレコードを持っており、それにもインスパイアされたと言う。

1977年、今度はブライアン・フェリーのバック・バンドの一員として来日。ホテル・オークラで再会した。だがその3年後にUKを結成して2度目の来日をしたジョンとインタヴューした折り、彼はフェリーとの来日は不本意なものだったと激しい口調で言い、「あれはぼくの日本公演としてカウントしてほしくない。UKがぼくの初来日だ」とまで言い切った。それほどの強いプライドをもちながら、《友情》や《マネージメントの事情》で不本意なギグをせざるを得なかったジョンの気持ちはいかなるものだったろうか。UKを結成したときのジョンは、間違いなくキング・クリムゾンでの栄光の日々を再現したかったからだと思う。自由自在にベースを爆音で鳴らし、一段と艶やかになったヴォーカルは30歳前後の年齢のジョンの2度目のエクスタシーであったはずだ。

近年になってキング・クリムゾンの(いわゆる)箱ものが発売になり、ジョンが「キング・クリムゾン時代のあなたを見ました」と言われるのを非常に誇りに感じているという記述があった。私はジョンと30年間、途切れた時期はあっても友情をはぐくむことができ、また、大切なファンとして扱ってくれたのは、やはりキング・クリムゾンを見た人、という認識があったからではないか。キング・クリムゾン、フェリーのバック・バンド、UKとさまざまな場所で会ったジョンは、純粋でひたむきなハートのミュージシャンであり、知っている限りアルコール依存症、などという兆候はまったくなかった。

私は80年代にロンドンに長く滞在しており、彼の所属するEGマネージメントはあのキングス・ロードにあったから、資料や写真などを受け取りにふらりと立ち寄ることもあった。たまたまジョンが居合わせて、その後、結婚することになるジルさんと三人でパブに行ったこともある。彼がエイジアで大成功を手にしたとき、祝福する気持ちはあったものの、またも「これじゃない」感におそわれた。私のジョンに対するゴールポストは、キング・クリムゾンのまま止まってしまっていたのだ。それほどまでにフェルト・フォーラムでのギグは衝撃であり、『USA』は私がツイッターに、「人生で1,000回は聴いた自信があるアルバム」と書いたほどだ。ちなみに再結成された80年代以降のキング・クリムゾンにはまったく興味はない。

(★)

エイジアでジョンはすぐれたコンポーザー及び歌い手として開花したが、アムステルダムのコンセルトヘボウでのライヴや「ザ・グレイト・ディシーヴァー」で聴くことができた自由奔放な、ベースの乱れ弾きはすでに過去のものとなっていた。エイジアはまったく別物、という割り切りで聴いていた。この時期、最初に書いたロサンゼルスでの出会いがあった。ジョンとはそれまで取材とプライヴェートを含めて10回近くアメリカ、日本、英国で会っていたが、ロサンゼルスでの出来事はまるで映画のワンシーンさながらだった。

83年か84年、私はある人に連れられてロスのミュージシャンのたまり場、といわれているレストランに行った。ある人、は2流のミュージシャンなので名前は避けておく。マイケルとでもしておこう。そこは運河の上に張り出したテラスのある大きな店で、アジアの創作料理がおいしいと評判らしい。着席してメニューをながめていた視線の先にジョンがいた。彼も私に気づいたようだが、大人の対応でお互いに知らぬふりをしていた。そのときの彼は髪を金髪に染めたのか、あるいはロスの太陽に焼かれたのか、74年に会ったあどけない若者にはない貫禄と自信が感じられた。彼とテーブルの上で手を重ねていた女性にも驚かされた。アメリカの女優がよく着るような肩を出した白いドレスを着た金髪の美人で、その数年前に公開された映画『白いドレスの女』のキャスリーン・ターナーによく似ていた。もしかしたら本物のキャスリーン・ターナーだったのではないかとも思う。

私とマイケルは世間話をしながら食事をしていた。ジョンはキャスリーン・ターナーをエスコートして席を立ち、バーカウンターに立ち寄ってレストランを出て行った。とても幸せそうでロスの雰囲気になじんでいた。しばらくするとボーイが私のところにやって来て「マダム、マッチをお持ちしました」と私にブックマッチを手渡した。マダム、とは男性といる女性を呼ぶときの一般的な言い方である。私はタバコを吸わなかったが、瞬時にすべてを察した。マイケルに気づかれないように、バッグのポケットにブックマッチを滑り込ませた。ホテルに帰るとバッグをひっくり返してマッチを開いた。あわてて書いたらしいジョンの文字があった。

「Good to see you happy──きみが幸せなのを見られてよかった」

それはそのまま彼への言葉でもあった。この時期、ジョンは非常に微妙な立場だった。一度は去ることを言い渡されたエイジアに復帰したものの、エイジアでの主導権はすでに失っており、時間をみてはソロ・アルバムを録音したり作曲活動にいそしんでいた。ゲフィン・レコードの思惑に振り回され、アメリカ式のミュージック・ビジネスに翻弄されていたのだ。
それからほぼ10年後、90年代にロンドンのEGマネージメントのオフィスで会った。ジルさんと結婚していたが音楽活動は不安定だった。そして、すでに肥満の兆候がみられた。ジルさんが「ハルコ、あなたは彼が若いときを知っているひとりだから、ミュージシャンとしてきちんと体調管理をしなさい、と言ってよ」と冗談を言い、ジョンが明らかに「うるせーな」という表情をしたのをはっきりと見ている。その数年後、ジルさんと離婚する。このくだりはパティ・ボイドが自著で証言している。

『今はブリxxx姓となっているジル・ウェットンともよく会った。(中略)当時彼女はキング・クリムゾンのメンバー、ジョン・ウェットンと結婚していた。彼もアルコール依存症だった。ともに同じように隠し事が多い生活を送っていることがわかると、私たちは互いを支え合う良き友人同士になった(中略)。ジルとジョンが離婚した。彼女も子供に恵まれず、そして偶然、私と同様に彼女の夫にも付き合っていた別の女性とのあいだに子供が一人いた』
2017年にジョンが亡くなった2日後に、エリック・クラプトンが「For John W」という短い曲をSNSにアップしたのは有名だ。想像の域を出ないが、ジョンはクラプトンとも会ったことがあるのではないか? ジャック・ブルースという希代のベーシストを知るクラプトンは、ジョンのベースにその面影を見いだしていたこともあったのでは、と想像するのはあながち的外れではないと思う。

私が知っているジョン・ウェットンはここで終わっている。最後に会ったのは2007年、再結成エイジアがアメリカ・ツアーをしていたときだった。6月26日、ヴァージニア州の「バーチメア(The Birchmere)」という300人程度収容のクラブだった。ピーター・フランプトンやボズ・スキャッグスもここで見た。かつてアリーナを満員にしたエイジアがまさかのクラブ・ツアー、と嘆きながらも怖いもの見たさで行った。客の年齢層は高く、明らかにスティーヴ・ハウ目当てのプログレ・ファンだ。私は前の方に座っており、楽屋からメンバーたちが出てくるのが見えた。そのとき、三度目、地面が渦を巻いて回った。ジョンの持っているベースギターがウクレレに見えたのだ。それほど激太りし、ニューヨークやロスで見た美青年は60歳近い年齢になり、私は来たことを激しく後悔していた。周りの女性たちをなぎ倒す勢いの魔力をもっていた彼への失望であり、自分で勝手に描いていた憧れの終焉だった。

コンサートが終わると、出待ちのむくつけき男たちに混じって私も楽屋口に立った。カール・パーマーとジェフ・ダウンズが差し出されるレコード・ジャケットにものすごい勢いでサインをしていたが、ハウとジョンはさっさと車に乗り込み、ファンの叫びにも車から降りようとはしなかった。そして、私と目があった。ローディーが私をフェンスの中に入れてくれた。車の中のジョンは疲れているようだったが、なぜ、アメリカにいるのかと尋ね、私は手短に自分のことを告げた。3分間のあわただしい会話のあと、車が出るとき、74年と同じ笑顔ではっきりと言った。

「Good to see you happy」
水上はるこ プロフィール

みなかみはるこ。元『ミュージック・ライフ』『jam』編集長。79年にフリーとなる。80年代の夏、ロック・フェスティバルを追いかけながら欧州を放浪。パリ、ブリュッセル、ロンドン、モスクワ、サンフランシスコ、ニューヨークなどに居住。19冊の本を出版。20冊目はロック小説『レモンソング・金色のレスポールを弾く男』(東京図書出版)。
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