最低で最高のロックンロール・ライフ

連載 水上はるこ・元ML編集長書き下ろし


第6回
ジーン・シモンズ、ロックの魔導士、愛の錬金術師……1,000の称号を持つ天才ミュージシャン

☆ 
水上はるこさん書き下ろしの「最低で最高のロックンロール・ライフ」は、『ミュージック・ライフ』世代の方に向け、主に70〜80年代──編集部/編集長〜フリーランス時代に「じかにその目で見た」「経験した」記憶・体験をお書きいただいている連載です。今回取り上げるのは、本連載のタイトルコーナーで水上さんとのツーショットを飾るジーン・シモンズ。

ジーン・シモンズは言わずと知れたキッスのベーシスト/ヴォーカリストで、1949年8月25日イスラエル生まれ。母親のフローラ・クレインはナチスの強制収容所にいたことがあるハンガリー系のユダヤ人で、父親と離別後ジーンはその母親と共にニューヨークに移住しました。60年代末から音楽活動をスタートさせ、本文中にも出てきますが、一時は教師として働くかたわらバンドでの活動も継続、1974年にKISSとしてデビューを飾ります。以後の活動ぶりはご存知の通り、ミュージシャンとして俳優として、また実業家としても多岐にわたる事業を展開。そして昨年 “最後の来日” を果たし、来年7月のKISS活動停止へ向けて「End of the Road」ツアーは続けていましたが、今般の事態を受けてツアーは延期、2021年6月からツアー再開の予定となっています。今回は、そんなジーンの若かりし頃、文字通りなかなか見ることができないその素顔に迫ります。

ジーン・シモンズ、ロックの魔導士、愛の錬金術師……1,000の称号を持つ天才ミュージシャン

文/写真◉水上はるこ 撮影◉長谷部 宏(★)、デヴィッド・タン(☆)/ML Images/シンコー・ミュージック
Text & Pix : ©︎ Haruko Minakami   Pix : ©︎ Koh Hasebe(★), ©︎ David Tan(☆)/ ML Images / Shinko Music


1974年4月27日、ニュージャージー州パセイックにある『キャピタル・シアター』にブルー・オイスター・カルト(以下B.O.C)を見に行った。まだレコード会社も景気がよく、ニューヨークから3~4人のロック・ライターを運ぶのに黒塗りのリムジンが出た時代だ。リムジンの内部にはミニ・バーがあり、男性たちは目的地に着くころにはすっかりでき上がり、ポケット一杯にリカーの小瓶を詰め込む輩(やから)もいたほど。B.O.Cは当時、東海岸を中心に人気を集めており、マネージャーとプロデューサーがサンディ・パールマンということもあって、音楽業界での受けもよかった。パールマンは数年後に、クラッシュやパブロフス・ドッグのプロデューサーとしても知られることになる。その前座をつとめていたのがキッスだった。マーベル・コミックスや日本の漫画を知る人にとっては特別ではないが、そのメイクと服装に度肝を抜かれた。
 
*     *     *

劇場に着いたころキッスのギグは進行中で、感度の悪い写真はそのときのスナップだ。前座ということもあり音も現在のような爆音ではなく、ごくごくシンプルなハード・ロックだった。写真でお分かりのように、衣装もこれからどんどん進化する初期の地味なものだし、ステージ・アクションも控えめ。B.O.Cを見に来た野郎たちの反応はあまりいいとは言えず、とりあえず前座としての役割を無難にこなして終わった。46年後だから正直に書くが、当時は「こんな格好までして人気を獲得しようとする、なんて恥ずかしい人たちだろう」という第一印象だった。《水上は先見の明がない》と笑わば笑え。1974年に今いち冴えないマーベル・コミックスを目の前で見たら、誰だってそう思ったはずだ。ギグが終わったあと、ドラマーが衣装とメイクのまま、楽屋の公衆電話で真剣に話をしていた。そのヴィジュアルは滑稽ですらあった。あとで知ったのだが、「ベス」という曲で有名になる奥さんのベスが交通事故に遭ったそうだ。この夜は、CBS招待のB.O.Cが主役だったので、キッスとの接点はいっさいなく、初対面のイメージは決して良いものではなかった。
1975年に日本でも初めてアルバムが発売されたのだが、当時の最新作である3作め『地獄への接吻』が最初に発売になった。帰国して『ミュージック・ライフ』の編集長となった私は1975年7月に、ジョージア州のメイコンでキャプリコーン・パ-ティーの取材&ニューヨークでキッスの取材、というミスマッチングな旅にでかけた。もう一度書こう、日本のレコード会社も景気が良かったのだ! ビクター・レコードのディレクターも同行してのアメリカ縦断ツアーだった。

ジョージア州からニューヨークにたどりつき、キッス側がレストランを借り切って、フルメイクのキッスとランチをとりながらのインタビューとあいなった。このときの模様は、もう男芸者かと錯覚するほどの下にも置かぬもてなしで、1年前にキャピタル・シアターで見た、ちょっとキレ味に欠ける前座のバンドとは大違い。世界的な人気がじわりと出始め、日本はそのターゲットの上位にランクされていたと、あとになってジーンが話してくれた。日本が漫画やコミックス、映画の先進国であり、アジアで唯一、ロック・バンドのツアーができる国だからだ。

帰国して取材を記事にすると(『ミュージック・ライフ』1975年10月号)、読者から思わぬ大反響が返ってきた。40年以上にわたって何十回となく載るキッスの、最初の本格的なインタヴュー&紹介記事で、ごくごく基本的な情報の内容でしかなかったが、ファンレターのあて先を記事の最後に書いておいた。「ファンレターを出したらサイン入りの写真が送られてきました!」「ポールのキッス・マークの付いた返事がきました」。他のバンドとは明らかに異なる情熱にあふれた対応。レコード会社、音楽雑誌、ロック・ファン、三者のキッス・ラヴが完全に一致したのだ。レコードも年を追うごとにプロフェッショナルで重厚なサウンドになり、イロモノからの脱却にも成功しつつあった。
 

(☆)

読み込み中.....

75年の末、キッスの招待で私はひとりロサンゼルスに向かった。キッス側が用意してくれたのはパンナムのファースト・クラスで、何百回となく飛行機に乗った私の唯一のファースト・クラス体験である。ロスではリムジンが手配されておりホテルへチェック・イン。その夜は時差ボケもあり、夕食をとると早めに部屋にもどり、テープレコーダーの作動確認などをしていた。ドアがノックされた。「Who is it?」「Room service」「I haven’t ordered」「Room service for Ms. Minakami」……なんだ、しつこい、ドアを開けてルーム・サービス頼んでいない、と言おうとしたら花束を持ったジーン・シモンズが立っていた。チビの私のために背をかがめて花束を差し出し、「ちょっと部屋に入れてくれる?」と含み笑いをしながら言う。こんな時間に、知り合いといえども部屋に招き入れるというのは、《そういうこと》を意味している。

「だめよ、こんな時間に。明日の取材で会いましょう」「おー、ハルコ、なんて冷たいんだ。秘密の話をしたくて勇気をだしてきたのに」。すねた幼児のような表情に変わったジーン。私はまだ、この色事師の手練手管を見抜けるほどの大人ではなかった。部屋に招き入れると上着のポケットからシャンパンのボトルを取り出してテーブルに置き、慣れた動作で冷蔵庫の上からグラスをふたつ持ってきた。そんなことをしながらも黒檀のような目は射抜くかのように爛々と光を放ち、その光線は透明な釘となって私を部屋の壁に打ち付けている。薄明りのホテルの部屋にいるこの美しいケダモノは26歳。カラスの羽根ように艶のある黒髪を肩までたらし、魅惑的な目力もさることながら、(当時はまだなかった言葉)肉食系男子のフェロモンを惜しげもなく発散していた。若さと自信に満ち溢れた顔は彫りが深く引き締まっており、そのパワーの源(みなもと)は、あとで知ることになるが、彼が71年間にわたって抱いている《人生への賛歌》でもあった。

私たちはとにもかくにも窓辺のテーブルに向かい合って話を始めた。「ハルコ、今日はぼくの秘密を打ち明けにきた」「秘密……って、こんな時間に女性の部屋に来てまで話さなければならないこと?」。私は皮肉たっぷりに答えたが、このあとのジーンの話を聞きながら、この男になんと冷たい言葉を浴びせたのか、と後悔することになる。「僕はアジアのある国で生まれた。アメリカで生まれたのではない」。アジア……まさか、インドとかフィリピンとか……? 「僕はイスラエルで生まれて8歳のときに母に連れられてアメリカに移民したユダヤ人なのだ」。ジーンは声を殺していかにみじめな子供時代を過ごしたか、英語もできず、貧しく、差別や軽蔑にさらされ、だけどロックだけが唯一の心の拠りどころだったと、せつせつと語った。確かにイスラエルはアジア大陸の国だ。それで「アジアで生まれた」ということで、私の気をひこうとしたのだろうか。しかし、目の前のこの男はそこまで計算高いようにはみえない。ミュージシャンという肩書きを脱ぎ捨てて、私と話をしたがっているようだ。「母はホロコーストの生き残りだ。イスラエルで暮らしていたが、生活は楽ではなく、ユダヤ人の多いアメリカで新しい人生を見つけようと、移民してきた。アメリカでの豊かな生活を見て、子供だった僕は驚いた。いつか必ず、この国で《成功者》と呼ばれる男になるんだと思いながら育った」

イスラエルに生まれてアメリカに移民──これがどれほどのハンディだったのかは、世の中のことを余り知らない私にも薄々と理解できた。そんな少年は今やアリーナで数万人の観客を熱狂させている。「僕はとにかく勉強をした。本当のアメリカ人になるために。大学を卒業して教師の仕事を短期間したが、孤独な僕を癒してくれたロックへの憧れはとぎれることがなかった。そして、今、こうやって日本のジャーナリストが僕たちの取材に来てくれるまでになった」。ジーンは興奮する様子もなく淡々と話した。1時間ばかりのプライヴェートな会話、シャンパンが心地よくまわり、私は時差ボケでこれ以上、目を開いていられなくなった。

「もう遅いわ、ジーン、明日の取材で会いましょう。今日は勇気を出して話してくれてありがとう」。彼は立ち上がり「OK, see you tomorrow」とドアまで歩いて行った。ドアノブに手をかけ、じっと私を見つめた。あっ、この役者め、演技がうまいから騙されてみるか、私もドアまで歩いて行った。ドアノブを握っていた手が私の肩をやさしく滑り降り、背中に手を回して顔を胸に押し付けた。心臓の音が聞こえるほど強く抱きしめ、ムスクの匂いがする美しいケダモノは、不敵な笑いを浮かべて部屋を出て行った。それでよかったのだ。その後、プレイボーイの名前を欲しいがままにし、歌手、女優、モデル、プレイメイト、あらゆる女性を支配するジーンの相手になるほど、私は大物ではなかった。
それから私あてに手紙が来るようになった。Eメールの時代ではなかったことに感謝する。最初の手紙はクリーヴランドから。フライヤーの裏に書かれた手紙で「あと1時間でコンサートが始まる。毎晩、3,000人から4,000人の観客の前で演奏している。チケットはすべて完売だ」。ステージに上がる前のミュージシャンの興奮と不安がまざまざと伝わってくるような、《ライヴ感》にあふれた手紙だ。ミシガンから、テキサスから、英国から、ドイツから次々に手紙が届いた。あるときはホテルの便箋に書かれた簡単な挨拶であったり、ときには英国でいかに自分たちは人気があるかという、雑誌編集者に向けた手紙だったりした。多分に個人的な内容も含む手紙なので、ほんの一部、さしさわりのない部分だけを紹介する。

「きみと交換した時計は今、僕の手首で時を刻んでいる。きみは僕のあげた指輪を大切にしてくれているだろうか?」。今となっては「この~、女殺しめ!」と苦笑するばかりだが、当時はこの若者がいかに豊饒な人生を極めようとしているのか、その前向きで真摯な生き方に感動したものだ。私の誕生日には私が世界のどこにいようとも、大きな花束が届いた。私が誰と交際しているかもつきとめられた。「きみのベーシストは元気かい? アメリカのベーシストも忘れないでおくれ」とイヤミたっぷりな手紙も来た。来日時には取材以外でも会ったし、ニューヨークやシカゴでも会った。

そして改めて書くまでもなく、1976年~77年にかけてキッスの人気は日本を含めて世界中で沸騰し、《イロモノ》という最初のイメージからの脱却にも成功。年の半分はアリーナ・レベルのライヴを行ない、コンスタントにアルバムを発表し、シングルも常にチャート・インしていた。とりわけ子供のファンが両親に連れられてアリーナに来るという、稀な現象を引き起こした。その子供たちは後に立派なロック・ファンになるわけだから、70年代の功績はたとえようもなく大きい。

商品情報 ジーン・シモンズ『ジーン・シモンズ』 CD(2016/5/18)¥1,489
(画像はタップ/クリックで拡大できます)

編集者、ライターとしての私とジーンは「give and take(ギヴ・アンド・テイク)」という極上の関係を築くことになる。今風に言えば、お互いにウィン・ウィンな人生だ。私は必要な情報を彼から引き出してメディアに拡散し、ジーンは花束や手紙で私をいい気にさせる。みごとなカサノヴァとしか言いようがない。1977年にキッスのメンバーがいっせいにソロ・アルバムを発表した。レコード・ジャケットの「Special Thanks」のところに私の名前も記されている。ジーンやポールとの友情は私が『ミュージック・ライフ』を離れてからも続き、ロサンゼルスに行ったときは『サンセット・マーキー』(必ずミュージシャンに会える古いが最高のホテル)をとってくれ、部屋の冷蔵庫には食品やスナックがたっぷりと入っていた。バンドのスタッフが車で送迎してくれ、プールサイドでボーっとしていたら、背後から来たジーンにプールに放り込まれたこともある。
 

(★)

読み込み中.....

キッスの初来日公演が実現したのは1977年3月24日から4月4日、写真はその際の模様。空港での出迎え、記者会見と撮影には舞妓さんたちが同席、そしてもちろん本番のコンサートにも派手さと熱狂が渦巻く。『ミュージック・ライフ』も4・5月号の2号連続で表紙に彼らを起用、さらに8月号も再び彼らが表紙を飾ることになる(ML GALLERY・1977年参照)。

これは1997年に来日したキッスが行なった記者会見の抜粋である。(『ミュージック・ライフ』誌1997年3月号より)

「我々が他のどんな要素よりも確実に表現したいと考えているのは、このバンドの持つ “スピリット” そのものなんだ。それにまったく同じ曲ばかり演奏しているわけではなくて、少しずつ違いも出しているしね。だが、気持ちは少しも変っていない。それは『ミュージック・ライフ』も同じことで、水上はるこさんはもうエディターをやっていないはずだが、今でも70年代当時に通ずる精神をもって雑誌作りに取り組み続けているはずだ。それと同じことだよ。(ここで通訳女史が本誌、及び水上氏の名前を省略し、一般論的に訳したところ、ジーンから女史になぜ『ミュージック・ライフ』の部分について何も言わなかったとツッコミが入る。油断もスキもないとはこのことである)」

スポンサーだったテレビ局が主催した記者会見だが、『ミュージック・ライフ』の記者の質問に、公の場で不必要とも思われる私の名前をひっぱりだし答えている。私は1994年にロックにかかわる仕事をやめた。ジーンのリサーチ能力もすごいが、世界中に何十人、いや何百人といる、かつて自分たちを記事にしたライター、編集者の動向をすべて把握しているかのようだ。多分、頭脳というコンピュータにインプットされていたのだろう。これはジーンの私に対する「ギヴ・アンド・テイク」の最後のギヴではなかったのかとも思う。しかし、2001年の来日時、地方都市に住んでいた私はなぜかシンコー・ミュージックに駆り出されて、ジーンとポールをインタヴューした記憶がある。英語も音楽情報も「rusty(錆びて)」、現役で取材していたほどの鋭い質問はできなかった。
2003年、アメリカをツアー中のキッスが近くの『ニッサン・パヴィリオン』という野外劇場にやって来た。チケットは購入したが、バックステージ・パスを入手できないものかと画策した。アクセス可能なファンサイトに “Haruko Minakami” でメッセージを送ると、なんとトミー・セイヤーから返事が来てパスが発行された。ところが事故が起こった。“Haruko Minakami” は私の本名ではないので、自分が水上であることを証明できず、当日、窓口でパスの発券が拒否されたのだ。日本にいるときとは勝手が違う。

最後に会ったのは2004年、アメリカから一時帰国していた時期に武道館公演を行なったとき。このときも誰に連絡すればパスが入手できるか分からず、(多分)シンコー・ミュージックに電話をし、当時のキッスに一番近い人物、増田勇一氏を紹介され、増田氏にホテルの電話番号を教えてもらってトミー・セイヤーにつながった。トミーの手配で翌日のパスが無事に発券され、20年ぶりにジーンやポールに会えたし、世話になったトミーにもお礼が言えた。ジーンは驚きながらも「ハッルコミナカッミー」と叫んで私をひょいと抱き上げた。私たちは共に50代後半になり、同じ時代を歩んだ愛ある共犯者としての友情を確認した。
ジーン・シモンズは『ベースも弾く商売人』とも認知されているのは承知している。人間が働き、しかも頭脳と身体をフル活動させて50年近く働き続け、それで金儲けをするのがそんなに悪いことなのか? 《乳と蜂蜜の流れる約束の地》を離れて3000年、そのDNAをひく男は、金も名声も女性も家族も手に入れた。この魅力的な悪魔については、多分、あと1世紀は語り継がれるだろう。その一部に水上はるこというライターがいたことを、ほんの少しだけ誇りに思う。
 
下写真は1978年、東京・日本武道館のみで行なわれた2度めの日本ツアーより。この後さらに10回の来日公演を行ない、昨年大晦日にはNHK紅白にも出演した。(★)

読み込み中.....

水上はるこ プロフィール

みなかみはるこ。元『ミュージック・ライフ』『jam』編集長。79年にフリーとなる。80年代の夏、ロック・フェスティバルを追いかけながら欧州を放浪。パリ、ブリュッセル、ロンドン、モスクワ、サンフランシスコ、ニューヨークなどに居住。19冊の本を出版。20冊目はロック小説『レモンソング・金色のレスポールを弾く男』(東京図書出版)。
この記事についてのコメントコメントを投稿

この記事へのコメントはまだありません

BURRN! PRESENTS KISS来日大全

BURRN! PRESENTS KISS来日大全

1,980円
ポール・スタンレー新自伝 バックステージ・パス

ポール・スタンレー新自伝 バックステージ・パス

通常版:2,530円
特典付:2,530円
  +送料650円

ポール・スタンレー自伝 モンスター~仮面の告白~

3,080円
ROCK THE BEST 長谷部宏写真集

ROCK THE BEST 長谷部宏写真集

3,850円

RELATED POSTS

関連記事

LATEST POSTS

最新記事

ページトップ