最低で最高のロックンロール・ライフ

連載 水上はるこ・元ML編集長書き下ろし


最終回
“南部の血” を歌い続けたオールマン・ブラザーズ・バンドとの半世紀

水上はるこさんによるこの連載「最低で最高のロックンロール・ライフ」は、残念ながら今回で最終回。『ミュージック・ライフ』世代の方に向け、主に70〜80年代──編集部/編集長〜フリーランス時代に「じかにその目で見た」「経験した」記憶・体験を書き下ろしでお送りしてまいりましたが、これまでの10回に加え、新たな書き下ろしも含め、弊社より2021年冬に単行本化いたします。書籍化、どうぞお楽しみに! 刊行の際にはもちろんMUSIC LIFE CLUBでもお知らせいたしますので、首を長くしてお待ちください。

そして今回のテーマはオールマン・ブラザーズ・バンド。デュアンには間に合わず、グレッグには会えないまま。しかし地元メイコンを訪れ、墓前には花を供え、あるじ不在の自宅にも訪問。バンド停滞期を経て21世紀に入ってもその後を追い続けた、愛してやまないグループとの約半世紀を振り返ります。

“南部の血” を歌い続けたオールマン・ブラザーズ・バンドとの半世紀

1975年、メイコンでのキャプリコーン・パーティーにて。左から故・福田一郎氏、
フランク・フェンター(アメリカの音楽ビジネス界でレッド・ツェッペリンを成功に導いた人物)、ディッキー・ベッツ、筆者。

 

文/写真◉水上はるこ 写真◉長谷部 宏(☆)、デヴィッド・タン(★)/ML Images/シンコー・ミュージック
Text & Pix : ©︎ Haruko Minakami   Pix : ©︎ Koh Hasebe(★), ©︎ David Tan(☆)/ ML Images / Shinko Music

 

 

「センムさん、ボブ・ディランが8年ぶりにコンサートをします。アメリカまで取材に行かせてください!」
「ダメ! ボブ・ディランを載せても雑誌は売れないから」(注1)

予想通りの答えだった。1973年当時、ボブ・ディランは一フォーク・ロック歌手に過ぎず、雑誌を売ってなんぼの仕事をしている出版社にとっては、ビッグ・スターでもアイドルでもないミュージシャンの取材は無意味だ。当時『プラス・ワン』という雑誌を編集していた私は26歳で、社会の仕組みと言うものがやっとわかる年齢になり、センムさんへの陳情は到底、快諾を得られるものではなかった。すごすごとひきさがる私に、神の声が聞こえた。「水上さん、そんなに行きたいのなら行きなさい。その代わり年末のボーナスは出せない。それでもいいのなら」。翌年のニューヨーク遊学といい、ディラン公演取材といい、私の我儘なお願いをまるで《先行投資》をするかのように受け入れてくれたセンムさん。水上はるこの水上は〇〇まではセンムさんのおかげで出来ている。

『プラス・ワン』1974年3月号。『ミュージック・ライフ』とは別に、弊社が刊行していた音楽雑誌。筆者による1973年大晦日のニュー・イヤーズ・イヴ・コンサートのリポートが掲載されている。
ディランのコンサートには豪華なおまけがついていた。その直前にサンフランシスコで催されるオールマン・ブラザーズ・バンドのコンサートも見られるのだ。60年代にブリティッシュ・ブルース(注2)をごく自然に聴いていた私は、やがてスタックス(注3)やアトコ/アトランティック(注4)のリズム&ブルースを聴き始め、1969年にデビューしたオールマン・ブラザーズ・バンドにたちまち夢中になった。
注1:《センムさん》とは1973年当時のシンコー・ミュージックの社長、草野昌一で、長年の習慣から社長職になっても社員からはセンムと呼ばれていた。ロックやジャズ、カントリー&ウエスタンへの造詣が深く、漣健児(さざなみけんじ)という名前で作詞や訳詞も手掛け、著作権ビジネスの確立に尽力した。1999年に藍綬褒章受章、2006年に逝去。
注2:ジョン・メイオール、サヴォイ・ブラウン、フリートウッド・マック等。
注3:メンフィスにあったレコード会社で、オーティス・レディング、サム&デイヴ、ブッカー・T&MGsなどが所属していた。
注4:アトランティック・レコードの別会社で、アーサー・コンレー、ベン・E・キング、バッファロー・スプリンフィールドなどが所属していた。

 

*  *  *  *  *

1973年の12月29日、私は三度(みたび)懐かしいサンフランシスコの空港に降り立った。「カリフォルニア・ホテル」というこじんまりしたホテルにチェックインするのももどかしく、ビル・グラハムの「FMプロダクション」を訪れ、ディランのチケットを受け取った。ついでにビル・グラハム御大にも挨拶をし、カルロス・サンタナと一緒に来日したことがあるレイ・エスラー氏にオフィスを案内してもらった。その足で行き慣れていた《ウインターランド》に行く。レーナード・スキナード、ジョー・ウォルシュ&バーンストームのコンサートと訊いて、時差ボケです……などとボーっとしているわけにはいかない。

大晦日の夕方、《カウパレス》という空港近くの巨大アリーナに、カメラマンも兼ねた友人とレンタカーで行った。ビル・グラハムが子供を肩車して現れ、1973年に別れを告げる特別な夜だということを印象付ける。《カウパレス》は名前からして、牛のオークション場、というイメージもあるが、主にバスケット・ボールなどのスポーツが催され、政治集会や新日本プロレスも興行をする15,000人収容の会場だ。「カリ(カリフォルニア)・パレス」が訛って「カウパレス」になった、という説もあるが、グレッグ・オールマンは自伝『My Cross To Bear』で、「そこには牛のクソの臭いが染みついていた」と述懐しているから、やはり牛が関係しているのだろう。

前座はマーシャル・タッカー・バンドで、エレクトリック・フルートが美しいメロディを奏でる。オールマン・ブラザーズ・バンドがステージに現れたのは午後10時過ぎ。それまで写真で知っていた彼らはダンガリーのシャツにジーンズという格好だが、この夜はグレッグもディッキー・ベッツも白いスーツ姿。現在はローリング・ストーンズのサポート・キーボード奏者としても知られるチャック・リーヴェルも在籍していた時期のラインナップで、オープニングは「むなしいことば(Wasted Words)」。グレッグは3曲ほどギターを弾いたあとハモンドの前に座った。

ツイン・ドラムスという構成のバンドは初めて聴いたが、ラマー・ウィリアムスのベースとテンポよく混ざり合い、当時のロック界でもトップ・クラスの音響で延々と続くジャム・セッションも退屈させない。午前0時のカウントダウン・イベントをはさんでも演奏が続き、途中でジェリー・ガルシアとボズ・スキャッグスが乱入。ボズがキーボードの前に座るとグレッグはさっさと引っ込み、それっきり姿を現さなかった。それから30分以上も続く「マウンテン・ジャム」が始まり、もうそれは極上のニュー・イヤーズ・コンサートで、追い出し曲の「リトル・マーサ」のレコードが流れる中、8時間、立ちっぱなしの会場をあとにした時には太陽が昇っていた。

多分、メンバーたちも演奏と酒に酔ったのだろう、翌1月1日はエルヴィン・ビショップをゲストに迎えていたが、前夜ほどの快演とはいかなかった。これが私とオールマン・ブラザーズ・バンドとの最初の出会いだった。デュアン在籍時には間に合わなかったが、かなり早い時期に最高のコンディションの演奏を見られてボブ・ディランに感謝、いいえ、センムさんに感謝あるのみ。このコンサートはKSANという地元のラジオ局がリアルタイムで中継し、すぐに海賊盤になったが、後年、改めて公式盤が発売されている。73年10月にグレッグは『レイド・バック』というソロ・アルバムを発表し、バンド内でも軋みがあるかのような噂もあったが、コンサートでは一切妥協せず、プロとしての矜持を十分に感じさせた。
『ミュージック・ライフ』1975年10月号。「ML海外取材第2弾」として、キャプリコーン・パーティを巻頭で特集(目次は「ML GALLEREY」同号を参照)。
そして何度も書いてきたが翌74年、私はニューヨークに半年住んでいた時期、ソロ活動中のグレッグ・オールマンの《カーネギー・ホール》でのコンサートを見た。3月27日、スコット・ボイヤーやトミー・タルトンらと演奏し、カーネギー・ホールとニュージャージーの《キャピタル・シアター》(キッスやブルー・オイスター・カルトを見た劇場)での演奏がライヴ盤として発売された。さすがにオールマン・ブラザーズ・バンドを見た時のように派手に騒ぐ観客層ではなく、ジャクソン・ブラウンの「These Days」や「Midnight Rider」を含む、ゆったりとした粒選りの名曲が演奏された。ディッキー・ベッツも同じ頃『Highway Call』というソロ・アルバムを発売している。

『My Cross To Bear』によれば、この直後、グレッグはシェールと恋仲になる。シェールは当時、デヴィッド・ゲフィンの恋人だったが、1975年6月30日にグレッグとシェールは結婚した。かくして南部の田舎育ちの青年は、パパラッチに追われるビヴァリー・ヒルズ住まいのスターとなったのだ。1977年、《最悪の来日コンサートのひとつ》とも言われる日本公演が実現するが、確かに記憶にさえ残っていないコンサートだった。シェール同伴のいわば新婚旅行の続きのような来日で、マスコミを完全にシャットアウトし、取材はかろうじてレセプションにふたりが現れた時のみだった。

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(☆)

グレッグ・オールマンはシェールと共に1977年6月に初来日。最初の4枚はその記者会見の様子、個別取材はなし。続くカラーの4枚は東京・武道館公演、最後モノクロの4枚は大阪・厚生年金会館公演より。このあと1991年にオールマン・ブラザーズ・バンドとして初来日公演が実現。翌年、そして1998年にも来日した。

グレッグとシェールがマスコミに追いかけられていた1975年7月23日と24日、ジョージア州のメイコンで、第4回キャプリコーン・パーティーが催され、当時の日本の発売会社、ビクター・レコードのディレクター、K氏、音楽評論家の福田一郎氏(故人)、ニューヨークから合流したカメラマンのデヴィッド・タン氏とパーティーに参加した。グレッグは姿を現さなかったが、ディッキー・ベッツ、チャック・リーヴェル、ボビー・ウィットロック(デレク&ザ・ドミノス)、デラニー・ブラムレットなどの姿が見られた。キャプリコーン・レコードの創設者、フィル・ウォルデン、副社長のフランク・フェンター(注5)も顔を見せ、私たちと一緒に記念写真におさまった(本ページ・トップの写真)。私は背中にピーチの刺繍をしたダンガリーのシャツを着ており、ディッキーがそこにサインをしてくれ(写真)、その時の写真にまたサインをしてもらっている。ということは、どこかでディッキーに会っているのだが、実はどこで再度サインをもらったかは不明。

メイコン訪問のもうひとつのハイライトは(当時はまだ宗教用語だった表現)「聖地巡礼」で、デュアンとベリー・オークリーの眠る墓地を訪れることだった。21世紀になって、数多くの日本人ファンもメイコンの地を訪れるようになったが、現在は鉄のフェンスで囲われているデュアンとベリーの墓地は、その時は誰でも墓に触れられるようにフェンスがなかった。ローズヒル墓地のかなり奥の方にふたりの墓石があった。事前に花屋に寄って花束を買い、真っ白な大理石の上にマグノリアの花を置いた。今でも思い出すたびに涙ぐむ時間だ。仕事で来ているとはいえ、「空駆ける犬(Sky Dog)」と呼ばれ、エリック・クラプトンやボズ・スキャッグスとも共演し、わずか24歳で他界した天才の魂がここに眠っているのかと思うと、感慨はひとしおだ。

30分ばかりそこで静かに過ごし、私たちは今度はグレッグの家を訪れた。もちろん主の姿はなく、留守をしていたローディーが内部を案内してくれた。現在でこそネットに聖地巡礼をしたファンが書いた情報があふれてあるが、私たちが行った時は「H&H」(バンドが好んで行ったレストラン)のことは知らず、「ビッグハウス(オールマン・ブラザーズ・ミュージアム)」もまだなかった。そのあと、オーティス・レディングの未亡人が経営している「ビッグ・オー・ランチ(牧場)」に行った。

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(★)

キャプリコーン・パーティで訪れたメイコンにて、最初はグレッグ・オールマン当時の自宅。本人は留守中ながら案内してもらった際に撮影した居間。会場内にはディッキー・ベッツらメンバーも。そして福田氏と共に記念写真。最後の2枚は、オールマン・ファンとして訪れた聖地巡礼の場所、デュアン・オールマンとベリー・オークリーが眠る墓所。

そして記憶の端にさえ残っていない散々な来日公演のあと、グレッグもオールマン・ブラザーズ・バンドも活動が散漫になり、いつ解散したのか、誰がメンバーなのか、不確かな時期に突入する。この時代の音源は最近になってブート起こしで発売になっているが、まったく手に取る気がしない。ただ1990年にローリング・ストーンズが初来日を果たした時、私はある音楽誌に「ストーンズは取材できないが、チャック・リーヴェルなら取材可能かもしれない」と助言し、チャックとのインタヴューにこぎつけることに成功。チャックはオールマン・ブラザーズ・バンドを去ったあと、「シー・レヴェル」というフュージョンっぽいバンドを結成し、最終的にストーンズ好みのキーボード奏者として、エリック・クラプトンやジョージ・ハリスンなどとも共演し、気が向いたらオールマン・ブラザーズ・バンドにも参加するという贅沢な人生をおくっている。ホテルのインタヴュー・ルームに現れたチャックの最初の言葉に非常に驚かされた。「僕を見つけてくれてありがとう」と言ったのだ。彼はオールマン・ブラザーズ・バンドについての不満などいっさい口にせず、とても前向きで明るい性格で、自分の音楽について語ってくれた。
筆者とチャック・リーヴェル、メイコンでの記念写真。この15年後、二人は東京で再会することに。
グレッグ・オールマンはシェールとの離婚やスクーター・へリング事件(注6)のあと、少しの期間、鳴りを潜めてはいたが、やがてバンドを去るディッキー・ベッツや新しく参加したウォーレン・ヘインズらとバンド活動を継続しており、スタジオ盤、ライヴ盤をバランス良く発売し、アメリカ国内では中規模のツアーを行なっている。そして、運がいいとしか言いようがないが、やがて成人したデレク・トラックスがサポート・メンバーを経て正式にメンバーとなり、ウォーレンとツイン・リードを担当する時代がやってくるのだ。1989年にニューヨークのビーコン・シアターで初の連続コンサートを行なったのを皮切りに、2010年を除く毎年、1週間から10日間のコンサートを行なうのが慣例となった。円熟味に加え、デレクという新しい血を得たオールマン・ブラザーズ・バンドは第2期なのか、第3期なのか、ともかくライヴ・バンドとしての評価はとみに高く、新しい観客も惹きつけながら相変わらず30分にも及ぶ「マウンテン・ジャム」を演奏し続けていた。

2002年から2009年までアメリカに住んでいた時期、オールマン関連のミュージシャンを見ない年はなかった。オールマン・ブラザーズ・バンドはワシントンDCのアリーナで、グレイトフル・デッドとのダブル・ヘッドライナーで毎夏、演奏した。グレッグのソロ・ツアーもほぼ毎年あった。これは500人程度の劇場で、アコースティック・ヴァージョンの「Midnight Rider」や「Will The Circle be Unbroken」「These Days」などを演奏していた。ディッキー・ベッツもやって来た。デレク・トラックスとスーザン・テデスキのギグも見た。ジャズやフュージョンに興味をもっているようだし、スーザンのヴォーカルもすばらしかった。エリック・クラプトン・バンドでスライド・ギターを弾きこなすデレクも見た。しかし、2009年のビーコン・シアターを語らずしてオールマン・ブラザーズ・バンドの物語は終わらない。
1969年にバンドが結成されて40年目の2009年、ビーコン・シアターでほぼ1ヵ月にわたる盛大なコンサートが毎晩、繰り広げられたのだ。早い時期に、クラプトンやジョニー・ウィンター、ボズ・スキャッグス、グレイトフル・デッドなどがゲスト出演するという情報が流れ、私はパソコンをたたき続けたが、やっと三日間のチケット、しかし後ろから数えた方が早い席が取れ、バスに飛び乗ってニューヨークに向かった。「デュアン・オールマンに捧げる」という趣旨の40周年記念コンサートで、チャック・リーヴェルも駆けつけ、ブルース・ウィリス(俳優)がハーモニカで参加するというサプライズまであったらしい。また、ジョン・ポール・ジョーンズが加わって「Dazed And Confused」も演奏されたらしい。「らしい」としか書けないのは、私がその日に遭遇することが出来なかったからだ。格式あるビーコン・シアターにはマリファナの匂いがたちこめ、ツイン・リード、ツイン・ドラムスの迫力はこの年にアメリカに住んでいて本当に良かった、と今でも思っている。クラプトンとはデュアンの死後に印税のことで揉めた、という噂があったが、ほぼ1時間にわたって演奏し、デレクやウォーレンとのトリプル・リードという贅沢なライヴがネットに上がっている。
ビーコン・シアターでの恒例のギグは2014年が最後だと発表された。グレッグの体調悪化、デレクやウォーレンが自立した活動を希望したことなどが理由と言われている。2017年5月27日、グレッグが69歳で亡くなった。6月3日にメイコンで行なわれた彼の葬儀がライヴストリームで配信されるのを見ながら、半世紀のあいだ、文字通り「サザン・ブラッド(南部の血)」を歌い続けた偉大な、そして放蕩の限りを尽くしたミュージシャンを目の前で見られた思い出を大切にしながら生きていこうと自分に言い聞かせた。
注5:アトランティック・レコードのディレクター時代にレッド・ツェッペリン、イエス、キング・クリムゾンのアメリカ進出を手助けし、キャプリコーン・レコードの副社長としてサザン・ロックの振興にも尽くした。1983年没。
注6:グレッグがドラッグ所持で逮捕された折り、司法取引に応じてドラッグの調達役だったロード・クルーのスクーター・ヘリングの名前を出し、ヘリングは懲役刑を受けた。グレッグは仲間を売ったと非難された。

水上はるこ著『最低で最高のロックンロール・ライフ(仮)』書籍化が決定!


水上はるこ執筆『最低で最高のロックンロール・ライフ』は、本連載の10回分に加え多数の書き下ろしと共に単行本化、2021年冬発売予定です。詳細は決まり次第MUSIC LIFE CLUBでお知らせしますので、ご期待ください!

水上はるこ プロフィール

みなかみはるこ。元『ミュージック・ライフ』『jam』編集長。79年にフリーとなる。80年代の夏、ロック・フェスティバルを追いかけながら欧州を放浪。パリ、ブリュッセル、ロンドン、モスクワ、サンフランシスコ、ニューヨークなどに居住。19冊の本を出版。20冊目はロック小説『レモンソング・金色のレスポールを弾く男』(東京図書出版)。
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