MUSIC LIFE CLUB 6th Anniversary

8/11(日)「MUSIC LIFE PARTY!」@六本木BAUHAUS

MUSIC LIFE CLUB発足6周年記念、歴代編集長を迎えた「MUSIC LIFE PARTY!」開催

クラシック・ロック情報サイト“MUSIC LIFE CLUB”発足6周年記念として、歴代MUSIC LIFE編集長を迎えた「MUSIC LIFE PARTY!」が8月11日、六本木BAUHAUSで開催されました。
MUSIC LIFE PARTY !
洋楽ゴールデン・エイジに捧ぐ
クラシック・ロック情報サイト “MUSIC LIFE CLUB” の発足6周年と、新刊『MUSIC LIFE Presents ザ・ローリング・ストーンズ インタビューズ』発売を記念した「MUSIC LIFE PARTY!」が8月11日、六本木BAUHAUSで開催された。トーク・ゲストには『ミュージック・ライフ』歴代編集長の星加ルミ子さん、東郷かおる子さん、増田勇一さんを迎え、ライヴ・パートではビートルズ・スペシャル・トリビュート・ユニットB.S.T.U、クイーン・トリビュート・バンドQUEER、BAUHAUS ROPPONGIからMUSIC LIFE CLUB SPECIAL BANDが参加。60年代〜80年代を2部構成に分けたイベントとなった。司会進行はMUSIC LIFE CLUBの吉田が担当。
第一部 トーク・ゲスト
東郷かおる子編集長、星加ルミ子編集長
第二部 トーク・ゲスト
東郷かおる子編集長、増田勇一編集長


 
第一部

ライヴ・パート:ビートルズ・スペシャル・トリビュート・ユニットB.S.T.Uが1965年ニューヨーク・シェイ・スタジアムでのビートルズ・ライヴを再現。続いてトーク・パート・ゲスト:星加ルミ子さん、東郷かおる子さんが登壇。
星加ルミ子(以下星加):長年の『ミュージック・ライフ』(以下ML)の愛好者の方々にお集まりいただきありがとうございます。今日は新旧の編集長が揃いましたが、東郷さん、二人一緒は初めよね?
東郷かおる子(以下東郷):そうですね、二人一緒というのは初めてです。
星加:60年代〜80年代色々なお話ができると思います。
東郷:ミュージシャンの悪口とかも(笑)。本当にたくさんのミュージシャンと会って取材してきました。
吉田:お二人とも元々は読者ですから、まず、それぞれのMLとの出会いを。
星加:短大一年生の時に行ったジャズ喫茶で、初めてMLを見たんです。こんなポピュラー音楽の本があるんだ──と見ていたら、編集後記に「こんなに忙しい時に誰か手伝ってくれる若くて可愛い女の子はいないか〜」と書いてあって、それを本気にして、バイトに雇ってもらおうとすぐ電話したんです、そうしたらですぐに採用されました。まだ、MLを知ってる人も少なかったし。
吉田:その数年後にはビートルズに突撃取材に行く──というのも、とんでもないスピードですすね。
星加:ラッキーだったとしか言いようがないですね、時代と私の若さがピタリと合って。
東郷:当時私は「ポール・マッカートニーのお嫁さんになる!」という高校生で、その頃「日本人音楽ジャーナリストがビートルズの単独取材に成功した!」っていうニュースを見て。
星加:東郷さんが入社した時のことは覚えてますよ、それまでは社員募集をしても応募も少なかったし無い年もあったの、それが65年にビートルズに会った!となった途端に社員募集告知に2,000人も応募があったんです。その中の一人が東郷さん。
東郷:2,000人の中から選ばれた!
星加:そのほとんど人が〈MLに入ればロンドンに行けてビートルズに会える〉と信じて応募してきた人で、そういう人はまず落として、最後に50人くらいが残って、その中から、ポピュラー音楽に詳しい人や、仕事はなんでもしますっていう人を5人選んだんです。その中の一人が東郷さん。非常に真面目な高校生で、色んな音楽を聞いていてよく知っていて、根っからのミーハー(笑)。だからこれはMLに入ってもらわないと──と面接官満場一致で東郷さんともう一人の2名に決定したんです。
東郷:60年代から70年代で何が一番変わったかというと、その前の時代日本の社会には子供と大人しかいなかったのが、子供・若者・大人という層になった。若者という概念がなかった所にその年代層の数が一気に増えて、長髪を始めとしたそれまで禁じられていたものが一斉にOKになった。
星加:60年代の閉鎖的な時代にビートルズが出てきたことが一番大きかったですね。自分たちで曲を作り演奏してトップ・スターになっていくのを見て刺激を受けて、若者たちの意識改革が始まったんです。
東郷:すごくスリリングな時代でしたよね、どんどん新しい音楽とか文化が入ってくるから、学校の勉強なんかしてる暇がなかった(笑)。
星加:私と東郷さんでは10年くらい年齢のギャップはあると思いますが、共にビートルズによって人生を選んだ仲間ですね、そういう人が沢山いました。
東郷:人生のチョイスはビートルズにあった──。私は「星加ルミ子になる!」と会社に入った人間ですから、着物姿でビートルズと一緒に写ってる表紙には震えました(笑)。
吉田:で、そのビートルズのライバル・バンドといえばローリング・ストーンズ。
東郷:そういう風にしちゃったからね。
星加:ビートルズは清潔で可愛い、ストーンズは全く反対のダーティで不良っぽいイメージで売り出そう──というレコード会社やマネージメントの思惑。最初からビートルズを意識した上での真逆のイメージ作り。でもメンバーがそういう悪ガキだったかというそんなことはないですね、ミック・ジャガーは医者の息子だし、キース・リチャーズも祖父母は市長を務めた家柄──とか、バンドに付けられたイメージとは違っていたと思います、
吉田:書籍『ザ・ローリング・ストーンズ・インタビューズ』の表紙にも写ってますが、星加さんはジャマイカとロンドンで、東郷さんはそれこそ10回以上インタビューをされてますよね。
東郷:ミックとキースの単独も合わせれば11〜12回は。
吉田:東郷さんの取材テープを元にこの本ができたんですが。
東郷:自分の取材テープは残しておく癖があって、それもストーンズなので全部持ってました。80年代初頭突然ストーンズの取材ができることになって、社長が「明日のニューヨーク行きの飛行機を予約してあるからすぐに飛べ!」。慌てて行きましたよ。現地では4日間連絡なしで、ようやく5日目に取材ができた。ミック・ジャガーは実に普通の人、でもその普通さがストーンズの強味だと思います。キレイな英語を話す非常に頭のいい人で、一の質問に対して三くらい答えてくれるし、回転が早いから取材するのにはすごくいい人。やりやすかったですね。
星加:私は1972年末にジャマイカで『山羊の頭のスープ』を録音しているストーンズを取材しました。翌年頭に日本公演が予定されていたので、なんとしても来日前に取材を──と。当時シンコーミュージックと知己のあったマーシャル・チェスさんがストーンズと親しいということもあって、色々と取材に便宜は図ってもらい個人インタビューや写真も撮ることができました。メンバーは日本に行くことをとても楽しみにしていて、ミック・テイラーなんかすごく喜んでました。一番困ったのはキース・リチャーズ。いつもどこを見てるのか、話を聞いているのかいないのかわからない人。「なんでも聞いてくれ」って言う割にはだいたい帽子を目深にかぶって寝そべっていて。カメラマンの長谷部さんが「Keith, Please take off your hat」って言うんですけど、キースは「構わないから早く撮れ」って(笑)。スタジオではリハーサルが突然本番になるから、写真を撮ってた長谷部さんが取り残されて閉じ込められたこともあって。
東郷:長谷部さんは咄嗟にしゃがんだけど、そのすぐ上で歌ってたらしいです。
星加:1ヶ月近くいましたからね、色々な話があります。
吉田:あっという間に時間が過ぎて、最後の質問になってしまいました。今まで取材をしてこられた中で〈一番良かった人〉は誰ですか?
星加:たった一人挙げろと言われたら、私はリンゴ・スターです。取材の合間もリンゴには色々と助けられましたし、朝ご飯も一緒に食べましたし。66年のニューヨーク公演の時、ホテルが一緒だったんです。最上階のビュッフェに朝10時頃に行ったら、リンゴ・スターが後ろから付いてきて、私のお皿にスクランブルドエッグとか色々なものをどんどん入れてくれるんです。最後は「一緒に食べよう」と朝ご飯を一緒しました。いい人っていえば私はリンゴ・スターです。
東郷:私はロバート・パーマー。すごくハンサムなイケおじだったんですよ。初めてインタヴューした時に、セルッティのスーツにノー・ネクタイでマルボロを吸って、片手に白ワインを持って部屋にふわっと入ってきたんです。あまりの格好良さに、私は、わああああ〜!!と恋に落ちそうになりました。当時取材では周りにレコード会社スタッフとかマネージャーとか10人くらいがいてじっと見ている。見られてインタヴューってすごいイヤじゃないですか。そうしたらロバート・パーマーが「君、この部屋は暑いね、一緒にベランダに出よう」って。
吉田:それナンパですよ(笑)。
星加:何も起こらなかったの?
東郷:いやぁ──何も。でも「ここは暑いからベランダで二人で話そう──」なんていい人なんだろう!って思いました、大人なんですよ。でも彼は53歳で心臓麻痺で亡くなっちゃった。その時はさすがにショックでした。
吉田:ありがとうございました、まだまだ話し足らないことはありますが、また別の機会に。星加ルミ子さん、東郷かおる子さんでした。
星加、東郷:ありがとうございました(場内大拍手)。
この後、BAUHAUS ROPPONGIからMUSIC LIFE CLUB SPECIAL BANDが、60年代〜70年代のロックの名曲をパフォーマンス。
第二部

ライヴ・パート:クイーン・トリビュート・バンドQUEERがクイーンのステージを再現、続いてトーク・パート・ゲスト:東郷かおる子さん 増田勇一さんが登壇。

増田さんから「“MUSIC LIFE PARTY” なんだから、みんなと乾杯しようよ」との提案で、ステージ&客席がグラスを手に、東郷さんの「良いことも悪いことも『MUSIC LIFE』から教えてもらった(笑)──、でも、あの頃の読者はみんな幸せだと思います、乾杯〜」の発声からトークはスタート。

吉田:先ほど東郷さんには伺ったので、ML初体験のお話を。
増田勇一(以下増田):僕が初めてリアルタイムの最新号として買ったのが75年8月号。ちょうどクイーンの来日直後で、イギリス帰国後第一弾としてフレディのインタヴューが載っていて、タイトルが〈日本は僕の第2の故郷〉。
東郷かおる子(以下東郷):わざとらしいねぇ〜(笑)。
吉田:東郷さんが付けたんでしょ?
東郷:まぁそのくらいあの子は気が利くってことよね。
増田:あの子(笑)、僕は中学3年生で、MLと全米トップ40に出会って。MLはウイッシュボーン・アッシュが表紙だったけど、中にはあまり記事が載ってなくて(笑)。グラビアは〈クイーン・オン・ホリディ〉が載ってた。この頃からクイーン、キッス、エアロスミスが3大バンドって言われ始めて。
吉田:東郷さん、当時の編集部のこととか覚えてます?
東郷:すっかり忘れました。とにかく、この頃を境に来日アーティストがグンと増えて、来日公演が終わったと思ったら次のバンドが来て、すごく忙しかった。小さなライヴハウスから大きな武道館までいろんなバンドがコンサートをやっていて、そう言う意味では面白かったなぁ。
増田:クイーンの初来日は、僕観てないんです。中学生のお小遣いじゃチケットは……、何かのLP買ったから他のは買えないとか。だから最初の頃は寂しい思いをしましたけど、MLに心の隙間を埋めてもらいました。
吉田:東郷さん、この頃のクイーンの手応えはどうでした?
東郷:手応えどころじゃないですよ、人気があり過ぎて。驚きましたよ、皆さん本当に真剣で、一つのバンドに対してファンはこんなに熱くなれるんだ──って。
増田:だって帰国後すぐにインタヴューしてるんですから、すごいニーズがあったからだと思います。
吉田:クイーンのライバル・バンドについては。
東郷:キッスの中でポール・スタンレーくんは思い入れのある一人で、インタビューはもちろん素顔。部屋をノックしたら誰かに電話をしながら開けてくれたので、「あ、ごめんなさい、誰かと話してたんでしょ」って言ったら、すごく真摯に「ガールフレンドと別れ話をしてたんだ……」。──すごい正直者で、「ガールフレンドって誰?」って聞くとザ ・ランナウェイズのドラマーだったサンディ・ウェスト。これは記事にはできないし。
増田:でも、そういうゴシップ記事もMLにちょこっと載ってましたよね、クイーンのロジャー・テイラーとブロンディが付き合ってるっていう噂とか。
東郷:遊びなんだろうけど、キスしてる写真を載せたら、もう非難轟々。
吉田:ポール・スタンレーは実際話してみて、どんな人でした?
東郷:すごいいい人だった。
増田:ステージだと高い声だけど、インタビューは落ち着いた低い声でゆっくり話してくれる、明るくはない人。
東郷:どちらかというと引っ込み思案で、自分をキラキラアピールする人ではない。
吉田:ジーン・シモンズはどうですか?
増田:電話インタヴューの時は必ず通訳を立てるようにしています、僕がインタヴュアーだと伝わってしまうと、ウケを狙って日本語を喋り続けるんですよ。でも、ものすごくクレヴァーな人ですよね、僕が初めて英語でインタビューした時に、見ていた通訳の人が「すごいね、相手の英語のレベルに合わせて喋ってるね」って言ってました。さすがに小学校の先生をしてただけあります。
東郷:私は会うことは会ってましたけど、残念ながら真剣にインタヴューしたことはなかったです。
増田:インタヴューは普通素顔なんですけど。取材で一日フルメイク&フル・コスチュームで幾らというルールもあって、ちゃんとギャランティしてくれるんだったら何本でも取材OK、渋谷のスクランブル交差点で写真を撮ったりもできるんです。取材の待機時間はその格好のままコーヒー飲んだりクッキー食べるから、ポロポロ粉をこぼしたりして(笑)。

吉田:で、クイーン、キッスとくればエアロスミス。
東郷:はっきり言っちゃうと音楽的にはエアロスミスが一番好きでした。アメリカのブルース・ロック系で好きで、ダリル・ホールやロバート・パーマーみたいにソウルフルで歌が上手い人が大好きだったから、他の二組はちょっと違うかな──と。ただ、キッスでは観客に対するサービス精神や、自分をそこに溶け込ませる術を知っているものすごい賢さを見てるし、クイーンは最初のニューヨークでの出会いの時ブライアン・メイが病気で大変だった──なんて、ものすごい初期から見てるのでね。

増田:MLの〈He Said She Said〉って読者投稿欄でもブライアンの病弱をネタにした川柳がありましたよね、〈病気がち せめて稼ごう 薬代〉(場内大爆笑)。みんなそういうイメージが植え付けられてしまって、〈ブライアンは病気がち、マイケル・シャンカーはバカ、ジミー・ペイジはケチ〉(場内大爆笑)。
吉田:本当ですか?、東郷さん。
東郷:私たちが会った頃は、ブライアンはなんとなくそんな感じでした(笑)。ジミー・ペイジは許可をもらっていたので部屋をノックしたら、開けてくれたけど私と長谷部さんの顔を見た瞬間に、ドアをバターン!と閉めて終わり。でも、翌日ML読者人気投票一位の盾を渡してなんとか無事に笑顔の写真は撮れました。前日のことは全然覚えてなかったみたい。
吉田:じゃあエアロの次はチープ・トリック。
増田:初来日のとき、高校の公衆電話からチケットを取ったなぁって。
東郷:最初に観たのが海外でブルー・オイスター・カルト(B.O.C.)の前座で出たとき。休憩時間にチープ・トリックの撮影準備をしていたら、B.O.C.のエリック・ブルームが「なんで昨日今日出てきたような誰も知らないバンドを取材するんだ? 俺たちを取材しろ」って。だから一応B.O.C.全員の集合写真を撮りました。
増田:チープ・トリックはアルバム毎に取材してました。リック・ニールセンが僕をいじるんですよ、どこまで本気かわからない人で。来日した時に「日本のバンドのプロデュースがしたい、それが実現した暁には次のジャパン・ツアーを最低でも3ヶ月やりたい、その間にレコーディングを入れるから、その間お前の家に泊めてくれ」って。「すいません、うち犬小屋なんで」って断りました。そういうことを言って僕が真に受けてエッ!!っとなるのが楽しいんですよ。チープ・トリックはまた来日して欲しいですけれど、ツアーとか長旅をするのは体の負担になるから……。
吉田:そして4番目は──。
増田:4番目って?
吉田:MLも推してたエンジェルですよ! 僕は1977年の初来日を武道館で見ました。
増田:でも来日中にイベンターが倒産して、バンドは帰らざるを得なかったという悲劇のバンド……。
東郷:そのエンジェルをロスで取材して、帰りに有名なクラブのロキシーにも寄って、そこで初めてホール&オーツを観たんですよ。一番前の席で見上げるマイクの前にあのダリル・ホールの顔があったのよ──みなさん、その時の衝撃を理解していただけます? この世にこんな綺麗な男性がいるのか……と思って、なおかつ歌が上手いしソウルフル。私はもう口を開けっぱなしですよ。本当にあの時の衝撃はすごかったですね。つい先日、6月にもロスのグリーク・シアターでダリル・ホールのコンサートを観たんですけど、バックはエルヴィス・コステロのバンドでギターはチャーリー・セクストンだったの。バック・ステージで会えて、デビュー当時は16〜7歳だった彼が55歳になって、でもあんまり変わらずにカッコよかったですよ。
吉田:増田さんは93年からML編集長で、80年代のロック・シーンも『BURRN!』で観てこられたし、東郷さんは当然ML編集長でしたから、最後に80年代のバンドでこれは語っておきたい、印象に残っているというと?
増田:80年代だとボン・ジョヴィとか? 後半はガンズ・アンド・ローゼズとか。自分の中では大きかったですけど。当然、デフ・レパードやメタリカもあって。
吉田:ではボン・ジョヴィの話を。
増田:今ちょっと声帯の具合で、長いツアーは負担が大きくてできなくて、ジョン本人も大変な目に会ってると思うんですけど、色んなことを気にかけつつも楽観的であるという彼の姿勢は僕は好きです。80年代のデビュー当時とかは意気がってて生意気っていう評判もありましたね。
東郷:その生意気さがすごい良かったのよ、嘘をつかないタイプ。ジョンに「あなたはどうしてロック・ミュージシャンになったの?」って聞いたら、すごい真剣な顔をして「有名になりたいから」って。野心的で可愛いし、載せてみようかな──ってMLに載せたら人気が出ちゃった。
増田:取材に長谷部さんを連れて行くとご機嫌で、「君のフォト・セッションだったらいつでもどこでも」って言ってくれる。86年の初武道館公演は6〜7割の入りだったんですけど、取材帰りに東郷さんと「これはもう一度来てもらわないとね」と話したのを覚えてます。
東郷:あのとき、ジョンって足に怪我してなかった?
増田:前日頑張り過ぎて捻挫して。
東郷:象の足首みたいに腫れて、でもそれを微塵も感じさせぬくらい走り回ってて偉いなって思いましたよ。
吉田:そして80年代もうひとつ避けて通れないのがこのバンド、デュラン・デュラン。
東郷:私が初めて会った頃は二十歳そこそこ。ML取材の新幹線で、移動中に私の隣の席にジョン・テイラーが座ってきたことがあって、真剣な顔で「ひとつ聞きたいことがあるんだけど──僕たちクイーンみたいに世界的に有名になれるかな?」って聞いてきたの。こっちも真面目に考えて、「私は、なると思う。なぜならアメリカより先に日本で最初にあなたたちの良さは認められてるし、アメリカ人がそれを理解できないはずはないから絶対にウケるよ」って言ったら、すごい嬉しそうな顔をして自分の席に戻っていった。その後デュラン・デュランは私の想像を遥かに超えて大きな成功を収めちゃった。私の目、日本人の目に狂いはなかった。
吉田:80年代はボン・ジョヴィとデュラン・デュラン。それで91年にフレディ・マーキュリーが亡くなって、翌年行なわれたトリビュート・イベントに東郷さん、増田さんは行ってらっしゃるんですよね。一番印象に残ったアーティストは誰ですか?
増田:これは邪道な答えかもしれませんけど、イアン。ハンター。「すべての若き野郎ども(All the Young Dudes)」の時に出演者が勢揃いしちゃったんです、後ろの方の目立たないところでデフ・レパードがコーラスをしていて。モット・ザ・フープルって一度も見たことがなかったし、こういう形でかなうことがあるんだ──ってもう泣きですよ。
東郷:私は、それがどんなライヴだったか覚えてない──でも、クイーンの曲って小説のように起承転結が素晴らしいのね、「ボヘミアン・ラプソディ」がその最たるものだと思うんですけど、コピーするのは本当に難しいと思います、今日出演されたバンドはそれをやってるから偉いなぁって思いました。
吉田:ということで、かなり時間をオーバーしてしまいました。《MUSIC LIFE PARTY!》ということで、普段はなかなか聞けない話を聞くことができました。東郷かおる子編集長、増田勇一編集長、ありがとうございました。
東郷、増田:ありがとうございました(場内大拍手)。

この後、BAUHAUS ROPPONGIからMUSIC LIFE CLUB SPECIAL BANDが、80年代〜90年代のロックの名曲をパフォーマンスでパーティは幕を閉じました。

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