ビートルズ来日記念ウィーク’25 イベント・レポート PART. 1:『アビイ・ロード』のマスターテープを聴いて収録時間を測り──新田和長氏 ノーカット版(MLC会員限定)

▲右側写真の左より新田和長氏、藤本国彦氏(新田氏の著書「アーティスト伝説」を手に)

ビートルズの日(6月29日)を中心に、ビートルズに所縁のあるミュージシャン、評論家、プロデューサーが集い語り合う「ビートルズ来日記念ウィーク」。2025年は6月28日、29日、BAUHAUS ROPPONGIにて開催された。
ストーリーテラーは藤本国彦さん。6月28日昼の部、ゲストは音楽プロデューサー新田和長さん。

ビートルズのプロデューサーで有名なジョージ・マーティンが唯一弟子として認めたのが新田さん。東芝音楽工業ではビートルズ初代ディレクターの高嶋弘之さんに付き、邦楽セクションを担当。そしてなぜかビートルズの『アビイ・ロード』のマスターテープを聴いて、収録楽曲の時間を計る役も仰せつかった。その話題からトークが始まった。

藤本国彦(以下藤本):英国から送られてきた音源を日本で初めて聴かれた──そのお話から聞かせていただけますか。

新田和長(以下新田):今日は後方の客席に、元上司の高嶋さんも来ていらっしゃいます(笑)、私は1969年に東芝音工に入りました。その頃、高嶋さんは邦楽に異動されたのに、なぜ私が『アビイ・ロード』を最初に聴いたのか──不思議なんですけど、高嶋さんから “新田、タイミングをチェックしとけ” と無造作に10インチ(25,4cm)のオープン・リールのマスターテープを渡されたんです、そこに< EMI THE BEATLES「ABBEY ROAD」と書いてあって。タイトルはすぐには読めなかったけれど、ビートルズの最新アルバムだということは分かりました。試聴室にテープ(Side A、Side Bの2本)を緊張して持って入った。それが69年9月超臨時発売が決まって航空便で送られてきたんです。ところが重いと郵送料も高くなるので、テープを巻いてある金属製のリールの上側を外して軽くしてある。それをテープレコーダーにかけて回すと、テープが上がって切れやすくなってしまう──まだ入社半年ですからテープを切ったらクビになる──と思いました。

でも、日本で一番最初にビートルズの新譜を聴けるわけですから興奮して聴き始めました。1曲目の「カム・トゥゲザー」は例の“シュッ!!”というのが何の音か分からなくて、シンバルとかの金属音かなと思った。試聴室は狭いですけど防音だから爆音で聴くんです、いい音なんですけど、A面~B面と聴き進むと眠気が襲っていい気持ちになってしまった。その理由が何十年も分からなかったんですけれど、ジョン・レノンが亡くなる少し前にアメリカのPLAYBOY誌のインタビューで話しているのを読んで納得しました。「ビコーズ」(B面2曲目)は、小野洋子さんがジョンに頼まれてピアノでベートーベンのソナタ「月光」を逆さまに弾いたものからヒントを得て、得意の三声(ジョン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン)のコーラスを3回重ねて録ったもの。そうやって多重録音をすると声が溶け合ってキメ細かい響きになる。しかもベートーベンの月光も入っている。だから僕は眠くなったんだな──とあとで分かりました。

ジョン・レノンっていう人は何をヒントに曲を作ったか──を平気で言えるのも偉いし、小野洋子さんはピアノが上手いんだということも分かったし、何よりも自分の欲しい音を瞬間的に見逃さないジョンの感覚はすごいと思いました。

ビートルズは曲の繋ぎや背景に色々なサウンド・エフェクト(S.E.)を入れて作品を作る。『アビイ・ロード』の「サン・キング」ではコオロギの鳴く音が聞こえて、『ザ・ビートルズ(通称ホワイト・アルバム)』の「ブラックバード」には鳥の鳴き声が入っている。新田さんも影響を受け、自身がプロデュースをした加山雄三のアルバム『加山雄三通り』では自ら録音機を持って江ノ島に行き、様々な海の音を録ってきたものをS.E.で加えたということだ。またジャケット裏に<Produced by Kazunaga Nitta>という表記が収録曲のタイトルより大きい字で入っているのは、ジョージ・マーティンさんを真似て。そのくらいビートルズや、ウィングスがやることを真似していた──と話された。

藤本:新田さんはご自身が考えるビートルズ的なサウンド作りをされて、最終的にはジョージ・マーティンさんに辿り着きますけど、ビートルズが解散した後のビートルズ・ロスの時代に財津和夫さん(チューリップ)と出会ったときのことをお話しいただけますか。

新田:高嶋さんが69年11月に退社されて、2代目のディレクター水原健二さんが私を可愛がってくださって “これを聴け” と渡されたのがバッドフィンガーの前身バンド、アイヴィーズのアルバム。そこに「メイビー・トゥモロー」というとんでもない良い曲が入っていて、すっかり私はバッドフィンガーのファンになりました。ビートルズは70年の『レット・イット・ビー』以降何の新譜もないけれど、イギリスにはバッドフィンガーがいて後にビートルズの弟バンドとも言われて、マライア・キャリーやハリー・ニルソンが歌った「ウイザウト・ユー」も彼らの曲だし、「ノー・マター・ホワット(嵐の恋)」「キャリー・オン・ティル・トゥモロー(明日の風)」とか ──、ああいうバンドがなんで日本にいないんだろう、出てきて欲しいと探してたんですよ。その時にちょうど来てくれたのが財津和夫くんなんです。福岡から1本のテープを持って。1曲だけ「魔法の黄色い靴」が入っていて、1曲じゃ良し悪しはわからないだろうという人はいますけど、あんなにいい曲を作れる人は何曲でも作れるんですよ。私はまだ入社2~3年目でしたけど、上司に新人採用伺いとか稟議書を出さないで、財津くんにいきなり “やろう” って言いました。私も高嶋さんも洋楽系で、芸能界的な部門とは違って、アーティストとプロデューサーは対等という考え方でいましたから、“一緒にやろう” という表現をしました。

当時は「オケは1時間、歌は1時間」合計2時間で完成させるんだ! って決まりがありました。僕は赤い鳥などもやっていたから、コーラスもカーペンターズみたいな多重録音をしたかったけれど、今みたいに(24チャンネルや48チャンネルなどのマルチ)レコーダーがなかった。2チャンネルのテープレコーダーに音を重ねていくと、エンジニアはS/N比が悪くなって音質が落ちると嫌うんです。僕としては音響的な質感が落ちるよりも音楽的なクォリティが上がった方がいいと思うからそれをやるわけです。そうすると録音時間もどんどん増えて、“新田、ここは学校じゃないんだ、早くプロになれ” って先輩から言われるんですけど、それがプロなのかどうか? ずっとおかしいと思っていました。

これは高嶋さんの影響ですけど、<自分で作ったレコードは自分で放送局に持っていってプロモーションをお願いするんだ、そうすると生の声が聞こえる>って。邦楽系は宣伝担当が配って、洋楽系は自分で宣伝する。TBSラジオに行くと平川清圀さんのような洋楽に詳しいディレクターがいて、“ドラムの音が聞こえないから、俺は邦楽のレコードはかけない” って言うんです。ドラムは聞こえてるけど “バスドラムや2拍4拍のスネアの音、ハットも聞こえない”。なるほどと思いました。邦楽を聴くと自分が作ったものも含めて洋楽とは全然違うことに気づくんです。それで録音課に行って先輩たちに “バスドラムにマイクをつけて欲しい、スネアも上側の皮の音と下側の蛇腹の高い音のバランスを取りたい、ハットの音や空気感も拾うと全部で10数本要る” と言うと “バカじゃないか?” と相手にされない。ところがアルバム『レット・イット・ビー』の写真集付き限定盤が出た時、スタジオの様子を撮った写真で、リンゴ・スターのバスドラムの前に黒い四角いマイクロフォン(AKG414)が1本立ててあった。鬼の首でも取ったようにその写真を録音課の先輩たちに見せたら、“なんだこんなのいくらでもある。20本くらいある” って。彼らは意地悪をしていたんではなく、ただ日本の常識に縛られていたんです。でも、外国ではやっているということがわかれば、みんなやってくれるようになった。そうやって日本の音楽は進化していきました。

当時東芝がディストリビューションをしていて、ドラムがいい音をしていたのがABC/ダンヒルというレーベル。スティーヴ・バリという有名なプロデューサーがいて、フォー・トップスやハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズとかいい音を作っていたので、<勉強しに行きたい>とその人に手紙を出したらOKが出て、2週間近くハリウッドのスタジオに行ってABC/ダンヒルのレコーディングの仕方を教えてもらいました。それで技術的には上手くなったんだけど、何か違うな──と思いました。

ここで新田さんはビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンに思いを馳せる。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴという天才が揃っていたビートルズと共に、7年半に渡り絶え間なく名作を制作したジョージ・マーティンとはどんな人だろう。いいアーティストと出会ったら生涯共に音楽を作る、そんなプロデューサーに会いたい──と、どんどんジョージ・マーティンに憧れていく。同じEMI系列の会社に居て、担当レーベルの社内でのポジションも似ている──と勝手に共通項も感じ、制作担当をした作品を事あるごとにすべて彼に送っていた。

新田:ジョージ・マーティンさんはEMIを辞めた後、AIRという自社スタジオもある制作会社を立ち上げていました。僕はイギリスに行くたびにそのオフィスを訪ねて、秘書のシャーリー・バーンズさんに<ジョージ・マーティンさんへの弟子入り>を頼むんですけど、“世界中からそういう話が来ている、ジョージは弟子なんかいらないって言ってる、だから帰りなさい” と言われるんです。でも、あまりしょっちゅう来ては帰る僕をかわいそうに思ってか、1974年頃から僕を誘ってハイドパークの芝生に腰かけて彼のEMI時代の仕事ぶりを話してくれるようになった。そのうちに友人とのディナーに誘われたり──この友人がチャーリー・ワッツだったんです──でも何を喋ったかは覚えてません(笑)。

その後もAIRには事あるごとに顔を出していたんですが、ある時、忘れもしません、AIRスタジオの赤い絨毯の長い廊下を直角に曲がった瞬間にすれ違った人がいた。“あれっ!? 今のはジョージ・マーティンさん?” と思って二三歩下がったら、彼も二三歩下がって来て、“You are Mr.NITTA aren’t you” と訊かれて、僕もびっくりしました。そうしたら “If You don’t mind ~もしよければ、今から俺の仕事を手伝ってくれないか?” って言うんです、紳士ですよね、会ったばかりに手伝えるわけがない。その時はマハヴィシュヌ・オーケストラの『黙示録』(1974)が終わったばかりで、ジェフ・ベックの『ブロウ・バイ・ブロウ』(1975)の録音が終わり、その編集をやっているから来いと。ここで断ったら終わっちゃうから編集室に付いて行きました。

録音したてのジェフ・ベックの音が流れていて、横にジョージ・マーティンさんがいて、隣に僕が座って、とんでもないことになっちゃったなぁ──と思いました。でもここでオタオタしてたら日本のプロの恥だと堂々として、色々と感想を訊かれたり意見を求められたことに答えました──言ったことはほとんど覚えてないんだけど、もう帰らなくちゃ…と思ったときに “家に来ないか? ご飯食べよう” って言われたので、行きました。そこで奥様のジュディさん、長女のルーシー、まだ5歳のジャイルズに紹介されて、そこからお付き合いが始まりました。

翌日はAIRスタジオでポール・マッカートニーに紹介され、何か弾けと言われたので本人の前で「ブラックバード」を弾き、アビイ・ロードの第2スタジオでは「イエスタデイ」を素材にそのオーバーダビングやミックスの秘密について、ジョージ・マーティン自ら音を流しながら細かい解説してくれた。
 
藤本:新田さんは渋谷のBunkamuraのスタジオをジョージ・マーティンと一緒に設計されたり、ジョージ・マーティンに要請された、坂本龍一が愛したという北海道の芸術の森にファンハウス札幌スタジオを建設されたり(注:現在の芸森スタジオ)、一緒に温泉にも入ったり、本当に懇意にされてたんですよね。1990年の石川県で行なわれたジョージ・マーティンの基調講演原稿のコピーがここにあります。

新田:彼からはいろんな物をもらってます。皆さんにこの基調講演の一部をご紹介します。

<ビートルズがデビューした初期の頃、私は彼らにとって先生のような存在でした、しかし反対に彼らから多くのことを学びました。ビートルズから学んだおそらくもっとも重要なことは「平凡を受け入れない(Not to accept the ordinary)という信条」でした。そしてほとんどの人にとっての限界を常に越えようとしていて、不可能と思われていた芸術に対して私の目を開かせてくれました。4人は手の届かない所にある何かを見つけるために、私にも限界を超える(always looking beyond the horizon)ことを求めました>。さらに<今日では二人のミュージシャンが一度も会うことなく、アルバムでは一緒にプレイすることが一般的になってきました。だけれども私はライヴ・パフォーマンスということを信じています。より人間的でエキサイティングで満足感も与えてくれます。どんなにテクノロジーが進歩しても音楽を進歩させるわけではないということは覚えておいてください>。

僕はここが気に入ってます、あれだけ『サージェント・ペパーズ~』でテクノロジーを使いまくった人が、結論としてはやっぱり自然の生音だと言ってます。<素晴らしい音楽というのは優れたミュージシャンが質のいい楽器を奏でたときに生まれてくるものです。我々の技術というものは、我々にできるのは、結局最良の方法でその音楽を永遠に記録することなんです>

これがジョージ・マーティンさんが晩年にずっと言ってたこと。演奏をする、生音を出せる大きなスタジオというものは絶対に大事なんだと。それで彼はバハマのモンセラット島に世界一のリゾート・スタジオを作ったんです。
 
成功したプロデューサーの使命として、モンセラットをはじめとしたスタジオはミュージシャン、スタッフ、音楽関係者の創作力を維持できる健康な制作の場でありたい──というジョージ・マーティン。EMIスタジオがあったからこそビートルズと作品を作り続けられた。EMIを辞めたら自分たちでその場を作らなければ──とAIRスタジオを作った。その最初の建物が取り壊しになり、新たに古い教会を作り変えてスタジオとする際に新田さんに協力要請が来て、新田さんは取締役としてAIRの経営にも参加することとなる。さらにハリケーンに襲われたモンセラット島が火山噴火もありリゾートではなくなってしまったため、ジョージ・マーティンはお忍びで来日し、新田さんと日本全国を巡ることとなる。三浦半島、山中湖のリゾート・スタジオを見て回るが納得する場所がない。もっと自然が豊富にあり、病の人も健康を取り戻すような場所はないのか──と最終的に北海道に行くこととなった。飛行機が着陸する前からマーティンさんは “ここだ! ここだ!” と納得し、札幌芸術の森の東南に広がる日の当たる斜面に、1993年8月ジョージ・マーティンから夢を託された新田さんはファンハウス札幌スタジオを建設する。竣工式にはジョージ・マーティン夫妻も出席した。現在の芸森スタジオである。

藤本:ジョージ・マーティンさんが亡くなられたときに、日本から唯一呼ばれたのが新田さんで、小野洋子さんもポール・マッカートニーも居て──、そのときの話で締めていただいてもよろしいですか?

新田:まず、音楽葬だったんです。聖歌隊の歌が終わると30人くらいのオーケストラが入場。息子のジャイルズが挨拶をし、“次にもう一人の息子を紹介します” と挨拶に立ったのがポールだった。印象的だったのは、<ジョージ・マーティンがいなければビートルズはいない>という話の中で、<ジョンと僕(ポール)とはリバプールの一つ手前の駅で、毎日ブライアン・エプスタインがロンドンから帰ってくるのを「コーヒー」を飲んで待っていた。来る日も来る日もレコーディングに関する良い知らせはなかったけれど、ある日、“ジョージ・マーティンという人が担当してくれる” という話を聞かされた。それでロンドンのスタジオに行くと、正面入り口からは入れてくれなくて裏口楽器搬入口から入った>。

藤本:まだテスト・レコーディングでしたからね。あと、ジョージ・マーティンの海軍時代の話もポールから出たそうですね。

新田:そうそう、ポールが<ジョージ・マーティンのことを僕らはからかって、“戦争に行ったって言うけど、飛行機に乗ってカリブの海を見てただけ。操縦したことも撃ったこともない、ただ見張ってただけ” と言っていた。でも、今考えると、その時からプロデューサーだったんだね。プロデューサーは演奏をするわけでも歌うわけでもない。だけど全体像をいつも見ていて、みんなを安全なところに導いていくんだ──>。そう話してたのが印象深かった。ジョージ・マーティンさんは2016年3月8日に亡くなって、その1ヶ月後くらいにお葬式があったんです。

藤本:新田さんがジョージ・マーティンの弟子としていかに信頼されていたというエピソードですね。

新田:ジョージ・マーティンは控えめな人です。何十回聞いたかわからないけど、“ビートルズに会えて僕は幸運だった、でも僕は自信家じゃないから、クリフ・リチャードを担当していたノリー・パーマーまでが断ったことを知っていたら、彼らのテープは聴かなかったんじゃないんだろうか──、でもあの頃は新しい才能に飢えていたんだ…”。そういう言い方をされてました。彼と出会った当初はヒットの作り方のような技術論も教わりましたが、途中からは人の道を教わったように思います。威張らず、嘘をつかず、稼ぐことより、魅力的な音楽をつくること、そしてアーティストや周囲の人たちに貢献すること、そのための音楽プロデューサーであることを叩き込まれた気がします。

藤本:ありがとうございました、新田和長さんでした。

(場内大拍手)

ライヴ:THE BEATMASTERS

【ビートルズ来日記念ウィーク’25 イベント・レポート】
下記のレポートも随時公開していきます。お楽しみに!

PART. 2 Special Guest:湯川れい子(音楽評論家・作詞家)
PART. 3 Special Guest:Chage(ミュージシャン)
PART. 4 Special Guest:杉真理(ミュージシャン)

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