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スティーヴ・ジャンセン監修のポイントは──ジャパン写真集『JAPAN The Photo Sessions』刊行記念トークイベント・レポート

豪華写真集『JAPAN The Photo Sessions』刊行記念トークイベント
4月26日(日)@新宿Rock Café Loft

〈自然な表情とバンドのありのままの姿〉、そして〈これまで発表されたことのない、見たことのない写真〉

写真上:左から、美馬亜貴子さん、東郷かおる子MUSIC LIFE編集長
写真右『JAPAN The Photo Sessions』
豪華写真集『JAPAN The Photo Sessions』の刊行記念トークイベントが、4月26日 新宿Rock Café Loftで開催された。本書はJAPAN 50周年記念プロジェクトとして、写真家でもあるメンバーのスティーヴ・ジャンセンが監修を担当。掲載写真のセレクション、レイアウト、装丁など細部にまで拘った写真集に仕上がった。

二部構成で行なわれたイベントは、前半を編集担当の美馬亜貴子さんが受け持ち、写真集の企画から完成までのエピソードを披露。後半は当時の『ミュージック・ライフ』(以下ML)編集長、東郷かおる子さんが登壇。美馬さんの司会で、JAPANとMLの出会いから、彼らが日本のファンに支持され大きな存在になっていくまでの過程が語られた。
◉第一部:編集担当・美馬亜貴子さん
美馬:まず、この写真集作成のきっかけについてお話しさせていただきます。2025年1月に『The Space Between』というスティーヴ・ジャンセンの写真展が東京で行なわれたのですが、その一年くらい前にスティーヴから、「写真家としての活動を振り返るような展覧会をしたいんだけれど、撮り溜めた写真で写真展を開催したら、みんな興味を持つと思う?」というメールをもらいました。そこから会場探しなどのお手伝いをしたのですが、そのやりとりの最中にシンコーミュージックの方からもうすぐ50周年というタイミングでもあるし、JAPANの写真集を出したらどうか──というアイデアが出てきたわけです。スティーヴは快諾してくれたばかりか「それなら僕が監修するのはどうだろう? 」と提案をしてくれまして、そこから「スティーヴ・ジャンセン全面監修」の本プロジェクトがスタートすることになりました。スティーヴは写真の選定はもちろん、レイアウト、表紙や装丁、写真集の中に掲載するエッセイの執筆など、文字通り全面的に関わってくれました。

スティーヴ自身も写真家であるため、こだわりは細部にまで及びました。まず要望があったのは、写真の色調──特に黒をしっかり出すことで、そのためにプリンティング・ディレクターを付けて欲しいということでした。

写真の選定に関しても彼の嗜好はハッキリしていました。例えば、私は編集者なので、グループ・ショットではメンバーそれぞれの表情がわかる写真の方がファンの皆さんは喜んでくれるのでは──そう思って選ぶわけですが、スティーヴは自然なショットの方がいいと言って、横顔や、下を向いている顔を選ぶことが多かったです。私としては、やはりJAPAN50周年記念の決定版的な一冊なので、いわゆる「キメ顔」の写真もある程度必要だと思っていたんですが、彼はこちらが選んだ写真を「それはちょっとつまらない」とか「ありきたりです」、あるいは「今まで何度も雑誌に載っていて目新しくない」などと言って容赦なく落としていきました(笑)。彼は雑誌に掲載された写真は結構把握しているんですよ。ポイントは〈自然な表情とバンドのありのままの姿〉、そして〈これまで発表されたことのない、見たことのない写真〉ということで、結果、そのような写真が沢山掲載されています。

一つ、印象的なエピソードをお話ししますね。 ごく初期の段階でスティーヴから「この写真を載せたい」と言われていたのが高橋幸宏さんとのツーショットでした。彼と幸宏さんの絆は非常に強いですから、もちろんこちらも快諾。ところがそのカットのオリジナル・ポジが見つからない。シンコーに保管されているアルバム(何万枚あるかわからないストック)や写真箱、どこを探してもないんですね。それでスティーヴに「見つからなかった」と伝えると、彼は「残念だけど仕方ないね」と言って納得してくれました。しかし制作が進むにつれて、私の方が、やはり二人の友情を象徴するこの写真を載せられないのは残念だな、どうしても載せたいなと思いまして、最後の望みに、都内某所にあるシンコーの写真倉庫へ探しに行ったんです。ここは会社に収納しきれない写真が保管されている場所なんですけれども、可能性のある「YMO」のファイルをはじめ、片っ端から開けて探しました。でも、やっぱり出てこない……最後に残ったのは、未整理の何も書いてないアルバムでした。「これは何も書いてないから、多分入ってないんだろうな──」と思ったんですが、開けてみたら、あったんです!! 「ついに見つけた!」と興奮して、スマホでポジを撮影したんですが、興奮し過ぎていたため裏表逆に撮ってしまいました(笑)。それをスティーヴに「あったよ!」と早速LINEで送ったわけですが、問題はその時間で……こちらは13時22分だったんですけど、それってロンドンでは朝の5時22分なんですよ。スティーヴにしてみれば大迷惑だったと思うのですが、でもそんな風に我を忘れるぐらい嬉しかったですね。写真集にはデヴィッド・シルヴィアンと坂本龍一さんの対談時のツーショットが載っているんですが、「デヴィッドと教授が載っていて、スティーヴと幸宏さんが載らないのはおかしい」と思っていたので、このツーショットを収録することができたのは本当に良かったと思います。スティーヴからも「名探偵」と誉めてもらえました。
次に、スティーヴが “これは入れたい” と選んだロンドンはバービカンセンター屋上での写真が紹介された。撮影は浅沼ワタルさん。〈メンバーみんなが満面の笑みで、非常に楽しいフォト・セッションだった。その思い出を残したい〉というのがセレクションの理由。JAPANはシリアスなバンドというイメージがあるが、実際はメンバー皆がユーモアがあり、楽しく過ごしていたとスティーヴは振り返る。そんなJAPANの側面を伝えるスナップショットも、この写真集には数多く収載されている。

続いて写真集発売を記念しての特別企画、〈スティーヴへの質問と、それに対する彼の丁寧な返答〉が紹介された。
Q1: 被写体として、また同じカメラマンとしての立場で、この写真集のどの写真が一番印象に残りましたか? by Hiroko

A:私にとって特に興味深かったのは、ステージ裏や移動中、撮影の合間などのより自然な瞬間を捉えた写真でした。 当初はそういった写真だけで一冊の本を作りたかったのですが、同時にこれはJAPANの50周年記念プロジェクトでもあり、バンドのヴィジュアル・ヒストリーのあらゆる側面とシンコーの写真家チームの才能を表現することが重要だと感じました。 バランスが取れているといいのですが。

Q2:写真の選定でこだわった点は何か。 また、あなたにとって特に印象的なフォトセッションはいつ、どこで行なわれたものでしたか? by Mayumi

A:一緒に仕事をした写真家たちは皆非常に才能豊かでしたが、もし自分の感性に最も近いと感じる一人を選ぶとしたら、それは浅沼ワタルさんでしょう。 彼はロケーションでの撮影を好み、自然な瞬間を捉えることを重視し、しばしばモノクロで撮影していました。 最も印象に残っている撮影のいくつかは彼とのものです。 例えば、バービカンセンターの屋上で行なった撮影などです。 また、長谷部 宏さんとも数多く仕事をしました。 撮影は数時間に及ぶこともあり、時には福岡や京都といった特別な場所へ私たちを連れて行ってくれたりもしました。 そうした旅は、ホテルや会場、車や飛行機の中以外で、私たちが本当の日本を知ることができた機会だったと思います。 特別な体験であったことは間違いないですが、実際の撮影はかなりハードなものでした。

Q3:「トーキング・ドラム」以外の JAPAN の曲で、ドラムのここが聴きどころ、ここをじっくり聴いてほしいという箇所を具体的な曲名で教えてください。by Kaoru・T

A:今、過去の録音を聴き返してみると、ドラム・パートに関して特にこれが一番好きというアルバムはありません。 ただ、自分が常に変化を求めようとしていたことは確かです。 曲のセクションからセクションへと移り変わり、パターンを変え、一つのグルーヴに長く留まらないようにしていました。 それはアレンジが非常にダイナミックで、バンドが構成や変化を重視していた70年代のロックをたくさん聴いていたことが影響していると思います。 特に最初の二枚のアルバム『ADOLESCENT SEX(果てしなき反抗)』『OBSCURE ALTERNATIVES(苦悩の旋律)』ではそれがよくわかります。「Love Is Infection(愛の伝染)」「Deviation(若き反抗)」「Obscure Alternatives(苦悩の旋律)」「Suburban Berlin(郊外ベルリン)」。 「Wish You Were Black(黒人ならば)」といった曲です。最近、1979年のボストンでのライヴ録音を聴きましたが、あの19歳の少年の頭の中でどれほど多くのことが渦巻いていたのか、我ながら本当に驚きました。 音楽的な停滞に陥ることなく、私たちはごく短い間に膨大な量の仕事をこなしたのです。

Q4: ミック・カーンのカニ歩きはどういう経緯で生まれ、いつ頃のステージからやりだしたのでしょうか。 また、メンバー間の評判はどうだったでしょうか。 by 鈴木 健

A: ミックがいつからステージでカニ歩きを始めたのか、はっきりとは覚えていません。 おそらく最初はステージを移動するための実用的な手段として始まったのかもしれません。 しかし、それはやがて別のものへと変化していきました。 彼はまるで滑るようにステージを横切って、人の注目を集める感覚を楽しんでいました。 彼は生まれながらのショーマンでしたね。実際、彼は最初はデヴィッドと共にリード・ヴォーカルをやりたいと考えていたんです。 しかし、リチャードが加入する前の、つまり私たち3人だけの初めてのライヴ・パフォーマンスとなる1974年6月1日に行なわれたミックのお兄さんの結婚式で、ミックは緊張のあまり歌うことができなくなってヴォーカルを辞退しました。
Q5:ドラムとの出会いと、ご本人が感じるドラムの魅力とは? また、奏者として大変に高いレベルをお持ちですが、練習などはどのようにされてきたのでしょうか。 専門の方に指導を受けられたりはしましたか?。 by Miko
Q6:初めてミックのベースとスティーヴのドラムで演奏した時、どんな練習から始めたのか知りたいです。その当時の印象的なエピソードがあれば教えてください。by katsudon


A:すべてがどのように始まったのか、記憶は曖昧です。 当時私はまだ14歳くらいで、それまではデヴィッドとデュオで演奏していました。 私はボンゴを叩いてバスドラムやスネアのパターンをコピーしようとしていました。 私の音楽への学びはそういうところから始まったんです。 そのうちデヴィッドもエレキ・ギターを手に入れて、ミックも含めて3人で演奏するようになったわけですが、それは今で言うところのジャム・セッションのようなもので、それほど複雑なものではなく、ただ自分たちの感覚を頼りにレコードで聞いた音をコピーしていたと思います。 その後3年間、私たちはほぼ毎日練習をして、その頃からドラムが私の生活のすべてになりました。 学校は二の次になり、私のエネルギーのすべては演奏の習得に注がれました。 私のドラミングは完全に独学で、当時はみんなそうでした。オンラインのチュートリアルなんてまだ存在していない時代ですし、ドラムの教本を読むことも考えもしなかったです。 当時は人に習うことはクールじゃないと思われていたんです。

Q7:また日本で写真展などを企画していただけますか? by miho xx

A:これまで幸運にも私が撮影したJAPANや、イエロー・マジック・オーケストラのメンバーなどの友人たちの写真を展示する機会に恵まれてきました。 最近では音楽とは関係のない展覧会(2025年1月に東京で開催された写真展『The Space Between』)を開催しとても楽しかったです。 ミュージシャンとしての活動とは別の展覧会をするのは初めてでした。 そしてもちろん、また展覧会を開催することには前向きです。昨年、Viva Strange Boutiqueとご一緒できたのが素晴らしい経験でした。 彼らは私の作品を中心にとても素敵なイベントを開催してくれました。

美馬:写真展を行なったギャラリーの方にうかがうと、美術関係の方にもスティーヴの写真は高く評価されているとのことでした。彼はいつもコンパクト・カメラを持っていて、街を歩いて気になったものを撮っているんですけれども、撮影した写真は作品であると同時に、スティーヴがどういう風にものを見ているかということでもあり、彼のアートにおける信条がわかるんですね。

さて、次はよく聞けたな~と思う質問です(笑)。

Q8:お兄ちゃんとは最近も連絡取ってる? by Kanon

A:バンド内の関係については前向きな姿勢を保ち、個人的な詳細には触れないようにしています。 若い頃、好きなバンド内のトラブルを耳にすると、その音楽に対する印象が変わってしまうことがありました。ですので、そう言ったことを公にする必要はないと思っています。とはいえ50何年間もずっと一緒に過ごしてきたので、兄と私はお互いに自分の空間を持つことが大切だと感じるようになりました。 どんな長期的な関係にも浮き沈みはあるものですが、最終的にはそれぞれ、自分なりの安らぎと満足感を見つけようとするものです。

美馬:非常に大人らしい回答ですよね。スティーヴらしい答えで、すごくバランス感覚がいい人だなと思います。次の質問は英国からのもので、元々は英文だったのですが、抜粋させていただきました。

Q9:そろそろまた集まって新しいサウンドを作り出す時期が来たのではないでしょうか。ロブ・ディーンやマサミ(土屋昌巳)といった他のメンバーも招いてみてはどうでしょうか。 by m

A:今でも音楽を作るのは楽しいし、適切な状況さえ整えばライヴを行なう可能性は常にあります。 ただ、今は少し事情が複雑になっていて、特にコロナ禍以降、会場間の競争が激しくなり、プロモーターも、自分たちが主催する公演をかなり厳選するようになりました。 まあ、どうなるか様子を見ましょう。 具体的な話にはなっていませんが、リチャードとはまた一緒に何かやろうと話しています。


ここで写真集制作に関する話題とQ&Aコーナーは終了。入場者にはお土産として、スティーヴによる返答部分をエッセイ風にまとめた小冊子が配布された。
◉第二部:ML編集長 東郷かおる子さん
美馬さんの司会でML編集長 東郷かおる子さんが登壇、まずはJAPANとの最初の遭遇から。

東郷かおる子(以下東郷):ものすごいドラマチックな話をしたいところなんですけど、全然ドラマチックじゃないの(笑)。ある日フィン・コステロというロンドン在住のカメラマンから、ものすごい量の写真がML編集部に届いたんです、手紙が入っていて、「これはJAPANというバンドで、多分『ミュージック・ライフ』にはこれからいっぱい載るだろうから、今から写真を送っておく」って書いてあったの。

送られてきた写真の第一印象は、髪型や風体が似ていることもあり、「あぁ、ニューヨーク・ドールズ(※)みたいなバンドだなー」と東郷編集長。しかしこの時、彼女は、彼らは「『ミュージック・ライフ』を見ている女子には受けるに違いない」と直感した。一つ心配があるとすればライヴの実力。当時MLは “ミーハー” と言われていたが、ライヴが下手なミュージシャンは推薦できない──。結局、写真を見ただけでは判断できないので、ロンドンに行ってメンバーに会い、フォト・セッションも行なうこととなった。

(※)1973年デビューのロック・バンド。ニューヨーク出身、後のパンクに繋がる存在と評されている。

東郷:最初、サンプルのLPで聴いた彼らの音楽は結構面白かったんです。イギリスのバンドにしてはファンキーな感じだったから。当時「JAPANってどんな音楽なんですか?」と聞かれたら、〈変態ファンク〉と答えてました。決して嫌いじゃなかったです。これをステージでうまく表現してくれたら大丈夫だろうと思ってました。
美馬:最初にロンドンのフォト・セッションでメンバーと会った時は、どんな印象でした?
東郷:それぞれみんな自分のカラーを持っている人たちでしたね。その中でバリアというか「壁作ってるな、こいつは」と感じたのはデヴィッド・シルヴィアン。反対に、全然作ってないのがミック・カーン。私はとにかくおしゃべりなのでミック・カーンに話しかけたら、彼はどんどんどんどん話してくれて、「いいやつだな、こいつ。眉毛はないけど」とか思いながら(笑)。そうやって話をしてると、横にいるデヴィッドが、聞いてないかと思ってたら実は人の話をよく聞いてるんです。で、「ああ、自分を安売りしたくない──そういう人なのね」と思った。
美馬:なんか生意気だったっておっしゃってましたよね。
東郷:特にデヴィッドはそうでした。彼らは若かったから、「そういう格好、ファッションをして学校に行ったのですか?」みたいな質問をすると、すっごい嫌な顔をして 「もちろんじゃないか。僕は当時からそうだし、今の僕がこれなんだから」って。「先生に怒られなかった?」って聞くと、「怒られたけど、翌日に学校辞めてやった」と吐き捨てるように言われて。こっちは、「あ、そうですか、すいません」って感じ。
美馬:そんなに良い印象ではなかったわけですね。
東郷:でも、決して悪くはなかったの。そうやって自分を前に押し出して、音楽的にも頑張りたい。「負けないぞ」みたいな雰囲気があって、私はそういうところはすごくいいと思ったし、こういうものがないと売れないから──と思いました。
美馬:実際に、JAPANが日本で人気が出ると確信したのはいつ頃ですか?
東郷:最初の取材が済んでからですね。なんだかんだ言いながらも、どんなところで撮っても、何を撮っても、彼らは嫌がらなかった。レコード会社とも連絡をとって、アルバムもしっかり聴いて、「ヴォーカルが、ギターが、ドラムが──」とか小難しい事を並べるんじゃなくて、日本人受けするような売り方がいいと思った。例えばデビュー・アルバムの『果てしなき反抗』。原題とは全然違う邦題だけと、「果てしなき反抗」ってなんとなくいいんじゃない? っていう感じ。
美馬:当時、クイーンやチープ・トリック、少し後のデュラン・デュランなど、東郷さんが「これでいこう!! 」って言ったものは全部売れてるんですよね。そういう神通力がありましたね。
東郷:当時はあったんですよ、当時はね(笑)。雑誌を作ってる側の人間としては、多くの人に知ってもらいたいバンドとかメンバーとかを見つけるわけです。 それで、みんなに「ねえねえねえ、ちょっとみんな聞いてよ。彼らはこういうことをインタビューで言っていて、音楽はこうよ」というのを知らせたくなるんですよ。そういう本の作り方をしていたから、まあ確かにミーハーですよね。でも「それのどこが悪いんだ? 」っていう感じだったんです。でも、皆さんのおかげで、あれから何十年も経っているのに、今日こうやって満員の方が集まってくださってる。
美馬:今回の写真集の前文にスティーヴが〈日本での成功がなかったら、今の自分はなかっただろう〉という意味のことを書いているので、やはり日本での成功は彼らにとって特別な体験だったわけですよね。

1979年2月号に東郷編集長はデヴィッド・シルヴィアンをMLの表紙に起用する。さらに続く3月号ではバンド全員のショットが表紙を飾り独占取材を行なっている。そのインパクトは絶大だった。そして以降JAPANの周りにはML取材陣が四六時中付いて、初来日時には東京を離れて博多・京都といった場所でも密着取材を行なった。以下は京都での撮影のエピソードである。

東郷:四、五歳くらいの子供が三輪車に乗っているのを、子供好きなミック・カーンが、「あ、すごい可愛い坊やじゃないか。僕、ハローしていいかな? 」って近づいたんですね。私は「あ、危ない!」と思いました。案の定ミックが「ハロー」って顔を見せた瞬間、その子は怖かったのかウワ~って泣き出した。いきなり見たこともない真っ赤な髪で眉毛のないお兄さんがいたわけですから(笑)。そしたら、その子のお母さんがパッと飛び出してきて「何してんの!」って怒るわけですよ。「怖い目に遭わせて、警察呼ぶわよ」とか言われて、私が「申し訳ありませんでした」って謝りました。まぁ向こうの身になってみると、見慣れないロック・ファッションをした長髪の外国人が5人も来てるわけですから、本当にびっくりしたと思います。
あ、それで思い出した。この時、近くにあった缶詰工場にミックとスティーヴが何も言わずにスタスタ入ってっちゃたの。そうしたらそれまで動いてた機械が突然ガチャッ!!と止まって。私は「ダメ、ダメ! 彼らは仕事をしてるんだから」って二人を追い出しました。まぁ警察沙汰にはなりませんでしたけど、突然外国人が入ってきて、働いてた人たちはびっくりしたと思います。
美馬:そんなご苦労があったんですね。あっちに行って謝り、こっちに行って調整して……と。
東郷:写真を見て読者の皆さんが喜んでくださることが一番だったんですけど、実際の現場は大変だったんですよ、本当に。

この缶詰工場のエピソードからも伺えるように、撮影場所に関して、彼らは有名な場所やあからさまに日本を意識した観光地は好まなかったが、最終的には取材陣の言うことも汲み取ってくれたという。写真集にも掲載された、京都の渡月橋近くでのフォトセッションでは土砂降りの雨に見舞われたが、服や髪、顔まで濡れる中でも「写真を撮るな」とは言われなかったという。
美馬:そういうロケをしている最中、メンバー同士の雰囲気はどうでしたか?
東郷:ものすごくつまらなそうにしてる人もいれば、「ここは何? どういうところなの?」なんて訊いてくる人もいるし、まあいろいろでした。
美馬:今回、その缶詰工場での写真が残っていないか倉庫に探しに行ったんですけど、ありませんでした。撮っていなかったみたいですね。本当にハプニングだったんだってことが分かりました。
東郷:そうですね。
美馬:当時、JAPANを推した手前、売れてくれないと困る──みたいなプレッシャーはありましたか?

東郷:いや、なかったですね。だって売れると思ったから。売れないはずはない。売れる要素はいくらでもある。逆に売れない要素は何なの?っていう感じで。売れる要素と売れない要素はほとんど同じなんですよ。 例えば、男性なのにすごい化粧をしてるとかね。 歌が上手いんだけど何だかわからないとか。それは彼らの魅力でもあり、もしかしたら魅力じゃないのかもしれない。 だけど魅力だと感じる人が多くて、武道館もいっぱいになったんだから、いいじゃないの、それでって。そんな感じでしね。
美馬:東郷さんは一枚目、二枚目のアルバムがお好きだったんですよね。それが三枚目の『クワイエット・ライフ』になると音楽性がガラッと変わって、ちょっとびっくりしたとおっしゃってましたね。
東郷:うん、私個人としてはちょっとガッカリしましたね。JAPANって、初期がめちゃくちゃ好きな人と、三枚目以降がすごく好きっていう人と分かれますよね(ここで会場の参加者に挙手してもらい初期と後期のどちらが好きかアンケート。その結果では初期も後期もほぼ同じ人数だった)。いいバランスでいますね。 まあでも、両方いいと思われなきゃあんなに売れなかったわけだから。まあ、私も、「これでさらに売れるだろう」と思いました。
美馬:その一方で、後期になると、バンドの状況的に取材がしづらくなってくるわけですが──。
東郷:それはどのバンドもそうよ。それまでは「日本で取材してくれるなら何でもOK」みたいなのがどのバンドもすごく多かったけど、売れてくるとだんだんマネージャーとか事務所がイニシアチヴを取りたがる状態になってくるわけです。JAPANも同じでした。何でもかんでもOKすると安っぽく見られると思ってたのかもしれないし、まあ大変は大変でしたね。でもやっぱり、売れたきっかけを作った『ミュージック・ライフ』ということで、他の雑誌とは違って、格別にやらせてはくれました。これはプライドを持って言えることですけど、JAPANは私がいいと思ったバンドなんだし、音楽的にも持っている雰囲気もいいわけだから推したわけです。レコード会社も味方に引き入れてやりましたからね。 大変でしたけど。
 
美馬:では、ちょっとここで話を戻してメンバーそれぞれの印象を改めてうかがいたいのですが、まずデヴィッドから。最初は「生意気」っておっしゃってましたけど(笑)。
東郷:ああいうのを “小生意気” って言うんです(笑)。生意気よりひどかったよ。 彼は私よりずっと年下だからね。でも今から思うと可愛いですよ。自分を安く見られたくない。「僕はアーティストなんだ」みたいな気持ちがあったのね。まぁ、それを受け取るだけの度量が私になかったから、腹が立ったのかもしれないけど。でも、それもなかなか面白い思い出ですね。
美馬:当時のJAPANのインタビューはほとんど東郷さんがなさっていましたが、メンバーと打ち解けてきたのはどの辺からですか?
東郷:最初の来日が終わってからです。日本に来た時に、「これがうちの雑誌です」と、分厚い『ミュージック・ライフ』をドーンとね、「わかったか」みたいな感じで机の上に載せたんです。イギリスやアメリカではロックとかポップスの記事が載っているのは、『New Musical Express』とか『Melody Maker』といった新聞形式の薄いタブロイド紙。ティーンエイジャー向けだったら真ん中をホチキスで留めたような薄い雑誌しかなかった。そこに分厚い『ミュージック・ライフ』を持って行ったら、やっぱりみんな驚くわけですよ。だからそういう意味ではやりやすいというか、『ミュージック・ライフ』の位置付けとか、それに載ることの価値みたいなものもわかってくれてたって感じですね。
美馬:解散後にも、デヴィッドはMLに連載エッセイを書いてくれていましたものね(1985年2月号~5月号に掲載)。では、ミック・カーンはいかがでしたか?
東郷:ミックはとっつきやすいというか、天気の話みたいな会話が気軽にできる人でしたね。いつもご機嫌でね。見た目は怖い……私は怖いとは思いませんでしたけど、オシャレでした。すごくミュージシャンっぽくて、「今、日本で誰が一番売れてるんだ?」とかそういう話をした記憶はあります。
美馬:では、スティーヴ・ジャンセンは?
東郷:すごくおとなしい印象で、絶対デヴィッドより前に出ない。 兄を立てるみたいな感じの弟くんでした。〈お兄ちゃんの言うことは聞く〉みたいな。でもよく見ると一番ハンサムで、喋ると十回のうち一回ぐらいは笑っちゃうようなことも言ってくれる、ユーモアのセンスがある面白い人でした。
美馬:リチャード・バルビエリはどうでした?
東郷:ごめんなさい。 全然記憶にない(笑)。あと、もう一人いるじゃない。
美馬:ロブ・ディーンですね。
東郷:ロブとリチャード──リチャードに関しては、とにかく、言うことを聞かないとか、そういうことは一切なかったんです。大人だったんですね。
美馬:ただ、膨大な数の写真を見返してみると、リチャードが、〈つまんないな。早く終わんないかな〉っていう顔をしているものが多かったですね(笑)。
東郷:まあだけども、それを私たちにぶつけるみたいな、そういう大人気ないことはなかったです。

美馬:そしてここで、やはり長谷部さんの話をうかがいたいですね。今回、長谷部さんが写り込んでいる写真が複数掲載されていますが、これ、実はスティーヴの希望なんです。「KOHが写ってるものを載せたい」と。本当に『ミュージック・ライフ』の長谷部 宏さんというのはアーティストに愛されるカメラマンで。
東郷:私、もう何十年も彼と一緒に仕事していて、「なんでこのおじさんの言うことはみんな聞くのに、私の言うこと聞かないのかしら」とか思いましたけれど(笑)。私も長谷部さん大好きだし、長谷部さんってとにかく「ロックはこうあるべき」とか講釈をたれない人なの。ビートルズの写真を撮ることになった時の話でも、「いや、俺ビートルズなんか知らなかったんだけど」って言うくらい、なんていうのか、欲がない──フラットなんですよ。「この写真撮ってものにしてやろう」とか、そういう感じは全然ない人。だけど、自分の写真に関してはすごいプライドがあるから一生懸命撮るわけです。それで出来上がった写真はほんと綺麗に撮れてるポートレートが多くてね。取材の時も「東郷さんの好きなように(アーティストを)動かしていい」って言うわけ。「俺、(タイミング)選んで撮るから大丈夫だよ」って。そうして撮られたのが、写真集に掲載されているデヴィッドの豊浜海岸の “ススキ原” や京都の “渡月橋” での写真なんです。
美馬:すごく自然な感じですよね。武道館公演の楽屋でメンバー同士が打ち合わせしてるところを捕らえた写真もスティーヴは気に入っているそうですよ。「こういう写真がバンドの真実を映し出している」って言ってました。
東郷:ホント、長谷部さんはね、アーティストから 「誰が写真撮るの?」って訊かれて、「Koh Hasebe」って言ったら、「じゃあいいよ」ってOKしてもらえるような存在でしたから。

美馬:JAPANは1981年の3度目の来日公演、そして82年の来日公演をもって解散となるのですが、解散することはかなり早い段階から分かっていましたよね。そのような状況で誌面を構成するのは難しかったんじゃないかと思うんですけれども……実際はどうでしたか?
東郷:私はね、なんとなく、もうこれが限界だろうと思ってました。普段の行動とか、そういうのを見てるとわかるんですよ。もうそろそろだなと。デヴィッドがやりたいことを聞くとJAPANとはちょっと離れてきているし、ロブとリチャードの二人も音楽は大好きなんだけども、JAPANというものに対する執着はみんな薄れてきていたので。
バンドって、解散する時に、嫌なものをお互いに出して嫌な感じで別れる人たちもいるんですけど、JAPANはお互いをリスペクトしていたように思いました。“解散” というより “JAPAN(というフェーズ)が終わった” と。そういう感じで大人でしたね。その頃デヴィッドは日本の坂本龍一さんと親交を深めていたし、なんというか、〈自分が今まで立っていなかった位置に自分を立たせてみると、やりたいことが他に出てくる〉というのは、ミュージシャン、アーティストとしては当たり前のことだから。 自然な成長と言えますね。

この後、来場者からのいくつかの質問に東郷編集長が答え、最後に写真集『JAPAN The Photo Sessions』の色校・テストプリントが来場者全員にプレゼントされた。

『JAPAN The Photo Sessions』

2026年3月27日発売

・予価:19,800円(税込) 世界限定600部
・上製(ハードカヴァー)/BOX入り/シュリンク包装
・スティーヴ・ジャンセン&リチャード・バルビエリ直筆サイン入りカード付
・A4判 224ページ
・ISBN:978-4-401-62308-2
・発行:株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント

【S.M.R.S.(SHINKO MUSIC RECORDS SHOP)『JAPAN  The Photo Sessions』特別販売ページ】
※予約は2026年2月27日(金)午後2時より予約開始いたします。
※JAPANのオリジナルロゴの入ったレザー・トレイをS.M.R.S.限定特典でお付けします。レザー・トレイは、S.M.R.S.とイヴェント販売時の限定特典です。一般販売には付きません。

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