「戦後、スウィング・ジャズが入ってきた翌年に 早くもビバップが演奏されていたんです」

 
『伝説のライヴ・イン・ジャパン 記憶と記録でひもとくジャズ史』刊行記念
小川隆夫トークイベント・レポート

2019年11月29日
於:東京/二子玉川 蔦屋家電

音楽ジャーナリストの小川隆夫さんが、1950年代から70年代までに行なわれたジャズの来日公演が日本のジャズ界に何を刻んだのかを、名曲・名演と共に語る『伝説のライヴ・イン・ジャパン 記憶と記録でひもとくジャズ史』刊行記念トークイベント』が11月29日二子玉川の蔦屋家電にて開催された。
 

お忙しい中お越しいただきまして、ありがとうございます。今日は先週出しました『伝説のライヴ・イン・ジャパン』にちなんでいくつか紹介していこうと思います。どのみちいつも話が長くなりますので、3つ4つしか紹介できないかと思いますが、順番で本の目次通りに進めていきたいと思います、その方がわかりやすいので。

この10年くらいかな、〈戦後の日本におけるジャズ史〉に興味を持っていまして、まだご健在なミュージシャンの方々にお話を伺っていく中で、全く知らない世界があったということに気がついたんです。もちろん戦前からジャズのミュージシャンはいたんですけども、戦後にジャズを始めた人、例えば代表的な方は渡辺貞夫さんが1933年生まれかな、高校を卒業した1951年に上京してミュージシャンになるんですけれども、ジャズのジャの字も知らないところから全くの自己流でジャズを身につけていった、当時はそういう人ばっかりなんですね。ジャズの学校もないので、先輩から見よう見まねで教わったものを実践で訓練してジャズを身につけていく──戦後から1950年代初頭まではそういう時代でした。

勝手に日本にやってきた!?──大物ジーン・クルーパ

もちろん戦時中はジャズは聞けなかったんですが、戦後になってアメリカやヨーロッパからジャズのミュージシャンが少しずつ来日するようになる。当時は進駐軍が居ましてその慰問での来日だったので、日本人向けの一般のコンサートというものはほとんどなかったんです。数えるくらいのライヴはあったみたいですが、資料を調べてみても名のあるミュージシャンはほとんどおらず、アメリカでも一流のミュージシャンといえる人が初めて一般向けに公演を行なったのが、このジーン・クルーパというドラマーです。

この人が来たのが戦後7年が経った1952年、その頃、1950年前後にアメリカのジャズの人気投票をすると1位にはならないが2位~3位に入るトップクラスの大物で、戦前の記録を調べてもこういう大物は来ていなかった。ですから名のあるミュージシャンが初めて日本に来た──というのはこのジーン・クルーパですね。ただ当時の雑誌や新聞に書いてあることを調べてみると、これだけの大物ミュージシャンなのに何のブッキングもなしにトリオで突如来日したらしいんです。

そして結局誰がブッキングしたのかよく分からないんですが、進駐軍のキャンプや当時銀座とかにあった進駐軍相手のクラブに、1日3回とか4回とか出演して、あとは日劇で行なわれたジャズのコンサートにもこのトリオは出演しました。編成はドラムとピアノとサックスで、ベースはなし。羽田空港に到着してそのまま日劇に行ったという逸話もあります。今と違って全くシステマティックではない滅茶苦茶な状態で、2週間くらい滞在して東京を中心にコンサートを行ないました。

そして、よくぞこの時代に!という形で、ビクター・レコードがこのジーン・クルーパ・トリオをスタジオでレコーディングしているんです。有名なジャズマンで、来日録音をしたのはこの人が初めてです。この『伝説のライヴ・イン・ジャパン』でもこのあとに書いていますが、来日したミュージシャンの演奏が残っているのは、最初の頃はラジオで放送したからなんです。残っているテープが発見されて、それがのちにレコード化……となるんですが、このジーン・クルーパはレコードを制作する目的で録音されたもの。

まずビクターのディレクターが録音したいとマネージャーに交渉したんですが、当時ジーン・クルーパはアメリカではマーキュリーというレコード会社の専属アーティストだったのでビクターではレコーディングできない──となったんです。でもこのディレクターが何度も何度も掛け合い、ジーン・クルーパ本人にも話をして、「外国のレコード会社だから例外があるんじゃないか」と本国アメリカと交渉し、ようやく〈日本だけの発売〉ということでOKが出ました。

ところがそのギャラが当時の金額にして180万円。これはとんでもない額でビクターの上層部は「そんな金額では決済が下りない」と言い、一方では帰国日程が迫ってくる。最終的にディレクターが「ジーン・クルーパの一番有名な曲 “ドラム・ブギー” を録音して、帰国後2週間以内に発売すれば絶対に売れる!」と部長を説得し、結局部長の単独判断で録音が行なわれました。

まさに大英断。ビクターによるクルーパの歴史的 “来日録音”

当時はまだLP盤がなくて78回転のSP盤の時代。収録時間は10インチ(25cm)盤の片面3分程度。それで全部で7曲録音して、4枚のSP盤で発売。4枚だと8曲入るんですが “ドラム・ブギー” だけは7分くらいあったのでA面/B面に曲の前半後半を振り分けて入れた。

日本の曲もやって欲しいと「証城寺の狸囃子」をリクエストしたんですが、北米にはタヌキが生息していないのでイメージが湧かない。そこでディレクターはスタジオに絵本を持ち込み、それを見たジーン・クルーパが即興でアレンジして録音したということです。では、そのさわりだけ聴いてみましょう。頭のカウントはジーン・クルーパが日本語で「イチ、ニ」と取ってます。
 
証城寺の狸囃子」ジーン・クルーパ・トリオ
 
この〈スウィング・ジャズ〉というスタイルはアメリカでは戦前に流行ったスタイルで、戦時中は〈ビバップ〉というその後の〈モダン・ジャズ〉につながっていくスタイルが始まっていて、50年代の初め頃はその〈ビバップ〉も終わろうかなという時代に入っていたのですが、日本では〈スウィング・ジャズ〉の時代でストップしていた。ですからアメリカではジーン・クルーパは少し時代遅れのスタイルになっていたのに、日本ではまだ一般的なジャズのスタイルだったんですね。

ジーン・クルーパのドラミングは小技を使わずダイナミックにリズムをキメてバシバシ叩くもので、これを目の当たりにした日本人ドラマーは大半がジーン・クルーパ・スタイルになってしまった。この後、50年代中頃から後半くらいまで人気を集めたジョージ川口、白木秀雄、フランキー堺、それからハナ肇といった人はみんなジーン・クルーパ・スタイルだった。

これは功罪あって、日本ではジャズがブームになるくらい人気が高まったんですが、アメリカではすでに〈ビバップ〉や、もっと複雑な〈ハード・バップ〉といったものが出てきてたのに、そういったものは日本ではウケない。相変わらず〈スウィング・ジャズ〉が人気を博していた。ですから50年代、アメリカと日本では先端のジャズにかなり時差があったわけです。

画期的! ジャズ一座の来日ではパレードも

そして翌1953年には、「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(Jazz At The Philharmonic : J.A.T.P.)」がやって来る。いわゆるジャズの一座です。その記事が載っているのが50年代の『ミュージック・ライフ』。当時はジャズの月刊誌だったんですね、まだロックは生まれてませんから。

J.A.T.P.のメンバーはというと、やはりひと昔前のスウィング系の大御所が14人、それがいくつかのバンドに分かれたり全員が一緒に演奏するセットがあったり、オスカー・ピーターソン・トリオや、絶頂期のエラ・フィッツジェラルドが集まった一座で世界を回っていたんです。見たこともない大物のミュージシャンが揃ったツアーを観た日本人はそうとうびっくりしたと思います。

来日したJ.A.T.P.のメンバーはそれぞれ名前の入ったタスキをかけ、アメ車のオープンカー10台に便乗してパレードをするなど派手に宣伝もして。ただ日本側からは、ミュージシャン14名、スタッフ3名の区別がつかなかったらしいですね。

この時J.A.T.P.のレコード発売元は日本マーキュリー。元々は関西にあったタイヘイ・レコードがアメリカのマーキュリー・レコードと発売の独占契約を結んでできた会社で、その社長の石井廣治さんが大変なカーマニアだったので、オープンカーでパレードをするアイディアが出た時に、仲間に呼びかけて10数台を東京に呼び集めた──という逸話が残っています。

また、レイ・ブラウンというオスカー・ピーターソン・トリオのベーシストがいて、当時はもう神様みたいな人で、クレイジーキャッツの犬塚弘さんは歓迎の一団に入ってまで羽田に行って、レイ・ブラウンに「私の神様です」と言って握手をしてもらったそうです。コンサートは日本劇場、日劇で6日間毎日やって、その後で関西に移動して行われました。

このJ.A.T.P.を組織したのがノーマン・グランツというプロデューサーで、後にヴァーヴ、パブロといったレーベルを起こした人。この時の公演はラジオ東京(現TBSラジオ)が中継放送をしていて、東京の6日間のコンサートは全部録音して、当日の夜ホテルにノーマン・グランツを訪ね、その場で音を聴いてもらい、放送OKかNGかを決めてもらって放送したらしいんです。

このテープはずっと無いものと思われてたんです。というのは番組のスポンサーが津村順天堂で、マスターテープは津村に渡していた……という話があったので、もうラジオ局の保管庫には残ってないだろうし──と思われていたんです。当時は録音テープというものも自由に買える時代ではなくて、国産品がないからアメリカのスコッチのテープを輸入して、それも輸入の規制品だったので国から割り当てられる購入予算の範囲でしか買えない貴重品だったから、その度に消去して使い回しをしていました。

そういうこともあったので多分この公演の録音テープはないだろうと思われていたんですが、熱心なレコード会社のディレクターが、録音を担当したラジオ局のディレクターと話して、当時津村順天堂に渡したのは全部じゃなくて、残りがあるかもしれない──とTBSのテープ保管庫を探して見つけ出したんです。

そして18年ぶりに発掘されたこのテープをマスターにしたレコード『J.A.T.P. イン・トーキョー〜ライヴ・アット・ザ・ニチゲキ 1953』が1974年に発売となった。初期のジャズのライヴ・レコーディングはこういう放送音源が大半なんです。演奏はかなり長いので途中までになりますが、プロデューサーのノーマン・グランツが司会をやっていて、流暢な日本語で最初にメンバー紹介をするのでその辺りから聴いてみましょう。
 
♪「ジャムセッション・ブルース」ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック・オール・スターズ
 
オール・スターズということで、全員ソロをとる22分くらいかかる曲なので、この辺りで(笑)。一部はこのオール・スターズ、二部はオスカー・ピーターソン・トリオ、ジーン・クルーパ・トリオ、エラ・フィッツジェラルドといった錚々たるメンバーの音源です。発売当時、僕や周囲のジャズ・ファンはみな「こんな音源が残ってたんだ!」とびっくりして、本当に嬉しかったですね。

LP時代はこのアルバムは3枚組で、3枚目のA面B面にはエラ・フィッツジェラルドの10曲が収録されていました。エラ・フィッツジェラルドは毎日5曲を歌ったそうなんですけど、日によって曲を変えるのでダブりなしに選んだら10曲になったということです。この時代エラ・フィッツジェラルドはデッカというレコード会社の専属でいいアルバムをいっぱい出しています。ただライヴ・レコーディングはなかった。だからこの時代のライヴはこれしかない貴重なもので、もちろん内容も素晴らしいです。

日本のトレンドが、最先端ではなかったからこそ。来日が実現した顔ぶれの豪華さ

こういった貴重な音源なんですが、スタイルとしてはアメリカ、ニューヨークとかで演奏されていた先端のスタイルからはかなりかけ離れたもので、ただ日本のファンにとってみれば初めて聴くものですから新鮮に映ったと思います。もちろんスタイルは古いけれど内容は素晴らしい。

ただしこれだけのメンバーが揃って来日し、パレードも行なって宣伝したにもかかわらず、当時の記事を読むと6割くらいの入りだったということです。戦後まだ日本は貧しい中で入場料もそこそこ取られる、しかも日劇は着席で約2,000人、立見客を最大に入れれば4,000人のキャパだったので、6日間通しでコンサートを行なうのはなかなか大変だったと思います。

いろんな公演評を読むと、みんながみんな手放しで大絶賛しているわけではなく、ある程度冷静にその人の感性で感想を述べているんです。この後もいろいろな雑誌でそういった論調は続いて出てきます。当時のジャズの専門誌では10人くらいの評論家やミュージシャンが「私はJ.A.T.P.をこう聴いた」というアンケートに応えていて面白いんですよ。

J.A.T.P.の来日は1953年11月、翌12月にはルイ・アームストロングが来日します。ルイ・アームストロングも昔の人なんですけど、やっぱり〈ジャズの王様〉と呼ばれている人ですから。東京浅草の国際劇場でやったのかな、ステージの模様は当時の『ミュージック・ライフ』がグラビアでレポートしています。

そして遂に産声をあげた、「日本の」ジャズ・シーン

続いて日本人のミュージシャンのお話になります。モカンボという、横浜は伊勢佐木町にあったジャズ・クラブは日本人が経営しているんですが、進駐軍の兵士や軍属相手のクラブで日本人は入れない。でも出演しているのは日本人。ここで〈モカンボ・セッション〉というのが行なわれていた。

当時、日本の一般の人たちが好んで聴いていたのはスウィング・ジャズで、その大スターがジョージ川口率いるビッグ・フォア。坂本九の「上を向いて歩こう」を作る中村八大がピアノ、のちにスイング・ビーバーズのバンドリーダーとなるベーシストの小野満、そして日本を代表するテナー・サックス奏者松本英彦というオールスター・メンバー、このビッグ・フォアが人気の頂点でした。

ジョージ川口という人は話を盛るので有名で、いろんな逸話が残っています。これは本当の話らしいのですが、ビッグ・フォアというのはコンサート専門のバンドでクラブなどでのライヴはなし。例えば日劇で1日3公演やるんですが、お客さんは日劇を何周も取り巻くくらいの長蛇の列。当時の高額紙幣は最高で1,000円札で、ギャラはその場の取っ払いだったので、1,000円札を紙袋に入れても入りきれなくて、残りをポケット全部に押し込んでも入りきれないくらいもらった──という話があったり。北海道公演をやった時のギャラが1週間で400万円だったとか。これは当時一軒家を建ててもお釣りが来るぐらいの金額でした。とにかくダントツに人気があったんです。それが当時の人気があったジャズでした。

海外ではビバップからハード・バップの時代、日本には入ってきていなかったけれど、40年代後半から50年代にかけて極々一部のミュージシャンが進駐軍の兵士にレコードを聞かせてもらって、「スウィングとは全然違う! アメリカじゃこんなジャズが凄いんだ!」ってミュージシャン魂に火が点いた。それでビバップを一生懸命コピーした一群のミュージシャンがいたんです。

ところがそういう人たちがビバップを演奏すると、スウィング・ジャズやシャンペン・ミュージックとしてジャズを聞いてる人には全然ウケない。それでクラブをクビになってしまい、収入がなくなり生活もままならなくなる。一方で何百万円稼ぐ人がいれば、一晩で100円にもならない人がいる。でもそうした熱心なミュージシャンがいたお陰で、その後日本のジャズは発展していくことになるんですけど、こういう人たちは演奏する場がなかった。

それで通常営業が終わった後のクラブやお店で、オーナーの好意があれば朝まで好きなミュージシャン同士が集まって好きな音楽ができる、そういうセッションをやっていた。神奈川県というのは進駐軍の基地が点在していたこともあって、数多くの米兵向けのクラブや店でミュージシャン連中が演奏していたので、伊勢佐木町にあったモカンボはみんなが集まりやすかったんですね。そうやって深夜12時に仕事が終わると、声をかけたミュージシャンが集まって朝10時までやっていたということです。

日本のジャズの爆心地、その名は〈モカンボ〉

そのモカンボでの演奏写真、これは後期のものですが、ピアノはのちに『網走番外地』などの映画音楽でも活躍される八木正生さん、そしてキーマンとなるのがピアニストの守安祥太郎さん。この人が重要人物なんです、日本にビバップを伝えた人です。当時東京に出てきたばかりの若き渡辺貞夫さんとか秋吉敏子さんに、一生懸命レコードをコピーして教えていた。この人がいたので、定着はしなかったけれど、ビバップが一群の意欲的なミュージシャンの間に流行ったんです。

1953年当時のモカンボのレギュラー・バンドはギターの澤田駿吾さんのダブル・ビーツ、ピアノは守安さん、ベースの鈴木寿夫さん、アルト・サックスの五十嵐明要さん、そのお兄さんでドラムの五十嵐武要さんというメンバー。そしてもう一つチェンジのバンドがいて、それが植木等とニュー・サウンズというトリオ、植木等さんはジャズ・ギターの人ですから。

で、繰り返しになりますが、この守安祥太郎さんという人は日本のモダン・ジャズの黎明期におけるキーパーソンで、アルト・サックスのチャーリー・パーカーのレコードから採譜しては渡辺貞夫さんや五十嵐明要さんに譜面を渡すんです。だからアルト・サックス奏者が4〜5人集まってセッションをするとみんな同じフレーズを吹いちゃう、元が同じだから。その中で一番上手くて熱心に研究して練習していたのが渡辺貞夫さんだったと、五十嵐さんは仰ってます。秋吉敏子さんのコージー・カルテットに渡辺貞夫さんが入っていて、53年の〈モカンボ・セッション〉では厚木の方で演奏を終えてから参加したそうです。

そしてもう一人重要な人がショーティ川桐さん(本名・川桐徹)。背が低いのでアメリカ人からそう呼ばれていたらしいんですけど、元々は帝国ホテルのレストランに勤めていたのが、コーヒー好きだったので貯めたお金で今は有楽町の東京交通会館になっている所の一角に、1952年にコンボというジャズ喫茶を開いたんです。銀座にもクラブがいっぱいあったので有楽町はミュージシャンが集まりやすかった。仕事に行く前、終わった後とミュージシャンが集まってきて、ここでは最新のジャズのレコードが聴けた。

ジャズ喫茶がほとんどなかった当時、ビバップとかハード・バップといった最新のジャズはここでしか聴けなかったんです。それでここに入り浸っていたのがさっきの守安さんで、レコードを聴いてはコピーをして、それを譜面にして常連だった渡辺貞夫さん、秋吉さんに貸してあげる。そうやってここから日本のビバップやハード・バップが生まれてくるわけです。

このコンボという店があったので若い意欲のあるミュージシャンが集まってきてビバップを知り、自分たちで演奏するようになっていく。先ほどお話した澤田駿吾さんのダブル・ビーツの面々や、ハナ肇さんが常連としていろんな人を連れてくる。もちろん犬塚弘さんや植木等さんといったのちにクレイジーキャッツを結成するメンバーも集まってきた。そこでここの常連たちから、「ビバップを演奏できる場がないので、このメンバーでジャム・セッションをやろうよ」という話が出て、ハナ肇さんが発起人になり、植木さんが出演しているモカンボを夜中に借りてセッションをやることになった。それで〈モカンボ・セッション〉は行なわれるんです。

ハナ肇さんはスタイルがジーン・クルーパで古いので、最初景気付けに叩いたあとは司会に回り、ステージに上がって次の出番のミュージシャンの呼び込みをやったということです。植木等さんはお酒を飲まないので入り口で参加料を徴収する係、井出忠さんというベースの人は裏口から入場しようとする人を止める門番をやった。通常、セッションではミュージシャンはタダなんですけど、この時は参加料を取った。なぜかというと、清水閏さんというビバップ・スタイルのドラマーで、その新しいスタイルが影響を及ぼした重要な人がいて、この人が当時ドラッグで捕まっていたのでその出所祝いも兼ねてこのセッションは行なわれ、出所直後でお金がない清水さんにあげよう──と参加料を取って行ったということです。

そうやって朝まで行なわれた大規模な〈モカンボ・セッション〉は計3回あったそうです──それ以外にも小さな規模のものはあったそうですが、1954年7月27日に3回目の、そして最後の〈モカンボ・セッション〉が行なわれました。この時の音を録音したのが、同じくコンボの常連だったまだ学生の岩味潔さん。卒業後日本テレビの録音部に入る方なんですが、機械に詳しく、当時まだ市販などされていなかったテープレコーダーを自分で組み立て、コンボの常連ミュージシャンがあちこちでやるライヴを録音していた。

それでハナさんが岩味さんを〈モカンボ・セッション〉に誘い、「あとでみんなで聴いたら楽しいだろうなぁ」という軽い気持ちでOKしたとのこと。ただ機材が鉄製の箱に入った大きなものだったので、コンボのマスター、ショーティさんがタクシー代を持ってくれて運んだそうです。そして当時スコッチが開発した紙製テープをこっそり入手して録音したとのこと。岩味さんはのちにジャズ評論家の油井正一さんとロックウェルというレコード会社を立ち上げ、そこで1956年に『Shotaro Moriyasu Memorial』という33回転17cmのEP盤を自費出版で出すんですけど、これは当時〈モカンボ・セッション〉の音が収録された唯一のレコードでした。

世の流行とは裏腹に。繰り広げられた真夜中の宴のサウンドは……

守安さんは公式なレコード会社での正式な録音は一つも残してないんです。というのもこのセッションの後1955年9月、目黒駅で飛び込み自殺をしてしまった。それだけにこの〈モカンボ・セッション〉は貴重だし、演奏も当時こんな演奏をしてたんだ!というくらい凄いものです。それが1975年ポリドールから『幻のモカンボ・セッション』としてLP4枚が発売されました(のちに3枚組でCD化)。今は全部廃盤になっているんですが、本当に当時最先端で演奏していた若い意欲的なプレイヤーがほぼ全員集まっています。

深夜12時から翌朝10時まで、そこで録音された5時間分のテープの中から、演奏者がかなり酔っていた曲と、ピアノ・ソロの途中でテープが終わってしまい架け替える間が抜けてしまった不完全な曲を外したと岩味さんは仰ってました。その中から1曲聴いてみたいと思います。守安さんのピアノ、宮沢昭さんのテナー・サックス、清水閏さんのドラム、ベースが鈴木寿夫さんというカルテット。1953年にJ.A.T.P.が来日してスウィング・ジャズを聞かせた翌年、日本人のジャズがまったく違うモダンなものになっています
 
♪「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ハッピー守安祥太郎、宮沢昭、清水閏、鈴木寿夫
 
曲が長いのでこの辺りで終わりにしますが、この時代アメリカに持って行っても相当話題を呼ぶ演奏だったと思います。びっくりするんですけど、今ならいざ知らず、全く情報がなく教えてくれる人もいないにもかかわらず、見よう見まねで短期間のうちにこれだけのスタイルや奏法を身につけた人がいた──ということです。ただ当時はこういう演奏をやる場がなく世に出せなかった、その鬱憤を晴らす意味でもみんな燃えたんだと思います。この録音が残っていたお陰で幻のピアニストと言われた守安祥太郎の全貌やその凄さが分かったということでもこの録音は貴重で、まさしく“伝説の”──といっていいものだと思います。

ということで、時間が来てしまったので今日はこれで終わりにしたいと思います。またいろいろとやっていきますのでよろしくお願いいたします。お気をつけてお帰りください。どうもありがとうございました。(場内拍手)

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