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1970年代に一世を風靡したファミリー・グループ、オズモンズの元リーダーで一家の長男、アラン・オズモンド死去
4月20日、1970年代に一世を風靡したファミリー・バンド、ジ・オズモンズのヴォーカリストであり、ミュージシャンであり、そしてソングライターのひとり、オズモンド家の長男としてグループのリーダーも務めたアラン・オズモンドが亡くなりました。享年76。彼の訃報は一家の地元、ソルトレイク・シティにあるTV局のABC4が、ジ・オズモンド・ファミリーの広報担当者に問い合わせ、確認されました。直接の死因については公表されていないものの、アランは1987年に多発性硬化症の診断を受けていました。広報担当者によれば、アランは妻スザンヌと子供たちに囲まれ、穏やかに旅立ったとのことです。
アランの弟のひとりであり、バンド仲間でもあったメリルは、自身のフェイスブックに投稿した追悼メッセージの中で、彼と最後に交わした会話を振り返り、「兄弟らしく、心を開いて語り合った」と綴っています。「彼は病に苦しみながらも、私の発したひとつふたつの冗談に、くつくつ笑いを漏らす力はあって……それから笑顔を見せてくれました。きっと一生忘れられないだろう、穏やかな時間の中で、彼は私の方に身を乗り出し、耳元でそっと囁きました。『メリル、お前と俺はずっと隣同士で一緒に仕事をしてきたよな。俺たちはウェインと一緒に “The Plan” を創り出し、プロデュースし、ディレクションをして……俺たちは心血を注いであの作品に取り組んだだろう。どうか……あの作品を何らかの形で活かしてくれ。俺たちが伝えようとしていたことを、世の人々に広めて欲しいんだ』。我々が彼のリクエストを必ず叶えるつもりであることを、この場を借りて皆さんにお知らせしておきます」
アランの弟のひとりであり、バンド仲間でもあったメリルは、自身のフェイスブックに投稿した追悼メッセージの中で、彼と最後に交わした会話を振り返り、「兄弟らしく、心を開いて語り合った」と綴っています。「彼は病に苦しみながらも、私の発したひとつふたつの冗談に、くつくつ笑いを漏らす力はあって……それから笑顔を見せてくれました。きっと一生忘れられないだろう、穏やかな時間の中で、彼は私の方に身を乗り出し、耳元でそっと囁きました。『メリル、お前と俺はずっと隣同士で一緒に仕事をしてきたよな。俺たちはウェインと一緒に “The Plan” を創り出し、プロデュースし、ディレクションをして……俺たちは心血を注いであの作品に取り組んだだろう。どうか……あの作品を何らかの形で活かしてくれ。俺たちが伝えようとしていたことを、世の人々に広めて欲しいんだ』。我々が彼のリクエストを必ず叶えるつもりであることを、この場を借りて皆さんにお知らせしておきます」
アランとその兄弟姉妹たちは、ユタ州オグデンで末日聖徒イエス・キリスト教会[訳注:キリスト教の三位一体説を否認する原始主義教会の一派で、日本では主にモルモン教として知られる宗派]の信者の家に育ち、教会の聖歌隊で歌うことを通して音楽の基礎を身につけました。1950年代後半、アランはメリル、ジェイ、ウェインら弟たちと共に、バーバーショップ[訳注:四声によるやや変則的なアカペラ形式の合唱形態]・カルテットを結成し、早々にディズニーランドでのギグや、TV番組『Andy Williams Show』への長期出演など、ロサンゼルス周辺で仕事をこなすようになりました。
1960年代半ばになると、オズモンズは更に下の弟のドニーを迎え入れ、バブルガム・ポップ・バンドへと変貌を遂げます。1970年には「One Bad Apple」(元々はジャクソン5のために書かれた曲)で全米ナンバーワン・ヒットを記録し、ここから70年代を代表するグループへと昇り詰めていく快進撃がスタートしました──当時のポップ・カルチャーの一部が前面に押し出していた、いたずらに刺激的で品がなく、セクシー寄りの路線に対して、彼らはその清潔感と、ファミリー向けのマイルドなイメージで人気を確立したのです。
自身はオズモンズでリード・ヴォーカルを務めることは殆どありませんでしたが、アランは間違いなくバンドのクリエイティヴ面におけるリーダーの一人でした。初期の頃、オズモンズは他のアーティストの既存の曲を頻繁にレコーディングしていましたが、程なくしてアランと弟たちは自分たちの手で自分たちの曲を共作するようになり、そこから「Down by the Lazy River」「Crazy Horse」「Hold Her Tight」などのヒット曲が次々に生まれました。また、アランはグループのメイン・プロデューサーの一人という立場を手に入れ、1973年のアルバム『The Plan』をはじめ、数々のアルバムのプロデュースを手掛けました。
ジ・オズモンズの人気絶頂期にリリースされた『The Plan』は、一家の信仰と哲学を凝縮した作品でした(アルバム・タイトル自体がモルモン教のコンセプトにある救済計画=強い信仰心を持って行動する人々は贖いによって救われるという概念にちなんだもの)。また、音楽的にも冒険的なところが垣間見え、珍しくアランがリード・ヴォーカルを務めた「Movie Man」のような楽曲では、プログレやシンセ・ポップの要素を取り入れたりもしています。
ジ・オズモンズの成功は、末日聖徒イエス・キリスト教会において彼らに特別な地位をもたらし、同教会の長老たちからは、1970年代に彼らの影響で何万人もの人々が洗礼を受けたことを評価されました。しかし、その70年代も半ばになると、グループのスターだったドニーのソロ・キャリアによる成功や、妹のマリーとの共演の成功に押され、ファミリー・バンドとしての活動は次第に鳴りを潜めていきました。
そして彼らの70年代は、子供たちの築いてきたオズモンド一家の財産が、詐欺師やペテン師たちによって次々に奪われるという、波乱に満ちた幕切れとなりました。一家の家長である兄弟たちの父親、ジョージ・オズモンドが破産宣告を拒否したため、アランと弟たちは選り好みなどする余裕もなく、手当たり次第にありとあらゆる仕事──企業の研修旅行から田舎のお祭りまで──を引き受け、ひたすら負債の返済に明け暮れました。
アランは1987年に多発性硬化症と診断されましたが、その後の数十年間も可能な範囲で仕事を続けていました。2007年に事実上引退したものの、2010年代後半まで何度かステージにも立っています。作曲も続けており、2019年にはユタ州オーレム市の市制100周年記念式典のために楽曲を提供しました。彼は妻スザンヌとの間に8人の子供に恵まれています。
1960年代半ばになると、オズモンズは更に下の弟のドニーを迎え入れ、バブルガム・ポップ・バンドへと変貌を遂げます。1970年には「One Bad Apple」(元々はジャクソン5のために書かれた曲)で全米ナンバーワン・ヒットを記録し、ここから70年代を代表するグループへと昇り詰めていく快進撃がスタートしました──当時のポップ・カルチャーの一部が前面に押し出していた、いたずらに刺激的で品がなく、セクシー寄りの路線に対して、彼らはその清潔感と、ファミリー向けのマイルドなイメージで人気を確立したのです。
自身はオズモンズでリード・ヴォーカルを務めることは殆どありませんでしたが、アランは間違いなくバンドのクリエイティヴ面におけるリーダーの一人でした。初期の頃、オズモンズは他のアーティストの既存の曲を頻繁にレコーディングしていましたが、程なくしてアランと弟たちは自分たちの手で自分たちの曲を共作するようになり、そこから「Down by the Lazy River」「Crazy Horse」「Hold Her Tight」などのヒット曲が次々に生まれました。また、アランはグループのメイン・プロデューサーの一人という立場を手に入れ、1973年のアルバム『The Plan』をはじめ、数々のアルバムのプロデュースを手掛けました。
ジ・オズモンズの人気絶頂期にリリースされた『The Plan』は、一家の信仰と哲学を凝縮した作品でした(アルバム・タイトル自体がモルモン教のコンセプトにある救済計画=強い信仰心を持って行動する人々は贖いによって救われるという概念にちなんだもの)。また、音楽的にも冒険的なところが垣間見え、珍しくアランがリード・ヴォーカルを務めた「Movie Man」のような楽曲では、プログレやシンセ・ポップの要素を取り入れたりもしています。
ジ・オズモンズの成功は、末日聖徒イエス・キリスト教会において彼らに特別な地位をもたらし、同教会の長老たちからは、1970年代に彼らの影響で何万人もの人々が洗礼を受けたことを評価されました。しかし、その70年代も半ばになると、グループのスターだったドニーのソロ・キャリアによる成功や、妹のマリーとの共演の成功に押され、ファミリー・バンドとしての活動は次第に鳴りを潜めていきました。
そして彼らの70年代は、子供たちの築いてきたオズモンド一家の財産が、詐欺師やペテン師たちによって次々に奪われるという、波乱に満ちた幕切れとなりました。一家の家長である兄弟たちの父親、ジョージ・オズモンドが破産宣告を拒否したため、アランと弟たちは選り好みなどする余裕もなく、手当たり次第にありとあらゆる仕事──企業の研修旅行から田舎のお祭りまで──を引き受け、ひたすら負債の返済に明け暮れました。
アランは1987年に多発性硬化症と診断されましたが、その後の数十年間も可能な範囲で仕事を続けていました。2007年に事実上引退したものの、2010年代後半まで何度かステージにも立っています。作曲も続けており、2019年にはユタ州オーレム市の市制100周年記念式典のために楽曲を提供しました。彼は妻スザンヌとの間に8人の子供に恵まれています。
安らかなる眠りをお祈りいたします。
商品詳細
オズモンズ
『The Plan』
Amazon Music(JAN 01 1973)
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Amazon Music(JAN 01 1973)
商品詳細
The Osmonds
『Osmondmania: Osmond Family Greatest Hits』
・Amazon Music(MAR 25 2003)
・Amazon(2003/3/25)輸入盤CD
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商品情報
The Osmonds
『Osmonds』
Amazon Music(NOV 14 1970)
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