伝説のドラマー、ジンジャー・ベイカー死す
元クリームの伝説的ドラマーだったジンジャー・ベイカー(本名:ピーター・エドワード・ベイカー)が、入院先の病院で10月6日に亡くなりました。享年80。
家族がフェイスブックで発表しています。
「非常に悲しいニュースですが、今朝ジンジャーが安らかに息を引き取りました。ここ数週間にわたり、温かいお言葉をくださった皆様に感謝いたします」
家族は9月25日にジンジャーが危篤状態であることを発表していましたが、9月29日には持ちこたえていると報告していました。(9月26日MLCニュース参照)
1939年8月にイングランドのルイシャムで生まれたベイカーは、15歳でドラム演奏を始め、60年代初期にはイングランドのジャズ・プレイヤー、フィル・シーメンからレッスンを受けました。ジンジャーのジャズに対する愛着心は、彼の音楽キャリアに生涯を通じて影響を与えることになります。
その後、初めてプロとしてブルース・インコーポレイテッドに加入し、ベーシストの故ジャック・ブルースと出会い、1966年にジャック・ブルースとエリック・クラプトンと共にクリームを結成。ブルース・ロックとサイケデリック・ロックを融合させたサウンドが特徴で、スーパーグループの草分け的存在として認められることになります。そのサウンドはそれまでのロックのアドリブの概念を変えるほど衝撃的で、当時のジャズ評論家が「年間でベストのアドリブ・プレイ」と絶賛するほどのものになっていました。しかし、そうした絶頂期の1968年に、バンドは解散してしまいます。
クリームの解散を機に、ジンジャーはクラプトンやスティーヴ・ウィンウッドらとブラインド・フェイスを結成、彼らが1969年にリリースした唯一のアルバム『Blind Faith』は、イギリス、カナダ、アメリカのチャートでNo.1を記録しました。
ブラインド・フェイス解散後、1971年までジンジャー・ベイカーズ・エアフォースというジャズ/ロック/アフロ・ミュージックをミックスした自身のバンドで活動していますが、その後は、アフリカ音楽を追求するために南アフリカに移住し、ナイジェリアのミュージシャン、フェラ・クティとも一時期活動していました。
80年代からは、ホークウインドやパブリック・イメージ・リミテッドらとも活動し、80年代後半には役者を目指し、ロサンゼルスに移住しています。
1992年には、ハード・ロック・バンドのマスターズ・オブ・リアリティで活動、1994年にジンジャー・ベイカー・トリオ(ビル・フリゼール/g、チャーリー・へイデン/b)を結成したほか、ジャック・ブルースとゲイリー・ムーアと共に、BBMというバンドでも活動していました。
また2005年5月、ロイヤル・アルバート・ホールとマディソン・スクエア・ガーデンで、エリック・クラプトン、ジャック・ブルースと再結集し、クリームのリユニオン・コンサートを行なっています。
2012年には、ジンジャーの生涯を描いたドキュメンタリー『Beware of Mr. Baker』が公開され、そこではジンジャーの気難しい性格を垣間見ることができます。
ジンジャーの訃報を受け、多くのミュージシャンが追悼メッセージを発表しています。
ポール・マッカートニー:「偉大なドラマー、ジンジャー・ベイカーは、ワイルドで素晴らしい人物だった。ナイジェリアのラゴスにあった彼のARCスタジオで、一緒にアルバム『Band on the Run』に取り掛かった。彼の訃報は悲しいが、彼との思い出が消えることはない」
キンクスのデイヴ・デイヴィス:「ジンジャー・ベイカーは、偉大でユニークなミュージシャンであり、革新者でもあった。彼の死はとても惜しまれるだろう。彼とは古き時代に会い、数年前にニューヨークで会った時は元気そうで、いつもキンクスを褒めていた。彼の死は残念だが、良い人生を送ったと思う」
また、故ジャック・ブルースの家族も追悼メッセージをツイートしています。
「二人は愛憎関係を乗り越え、ジンジャーはジャックにとって兄のような存在で、二人のケミストリーは本当に壮観でした。史上最も偉大なドラマーの一人だったジンジャー、安らかに」
この他、ミック・ジャガー、リンゴ・スター、デヴィッド・カヴァーデイル、ブライアン・メイ、フリー(RHCP)らもツイッターで追悼の意を表しており、それらのメッセージはこちらの記事でご覧になれます。
安らかなる眠りをお祈り致します。
家族がフェイスブックで発表しています。
「非常に悲しいニュースですが、今朝ジンジャーが安らかに息を引き取りました。ここ数週間にわたり、温かいお言葉をくださった皆様に感謝いたします」
家族は9月25日にジンジャーが危篤状態であることを発表していましたが、9月29日には持ちこたえていると報告していました。(9月26日MLCニュース参照)
1939年8月にイングランドのルイシャムで生まれたベイカーは、15歳でドラム演奏を始め、60年代初期にはイングランドのジャズ・プレイヤー、フィル・シーメンからレッスンを受けました。ジンジャーのジャズに対する愛着心は、彼の音楽キャリアに生涯を通じて影響を与えることになります。
その後、初めてプロとしてブルース・インコーポレイテッドに加入し、ベーシストの故ジャック・ブルースと出会い、1966年にジャック・ブルースとエリック・クラプトンと共にクリームを結成。ブルース・ロックとサイケデリック・ロックを融合させたサウンドが特徴で、スーパーグループの草分け的存在として認められることになります。そのサウンドはそれまでのロックのアドリブの概念を変えるほど衝撃的で、当時のジャズ評論家が「年間でベストのアドリブ・プレイ」と絶賛するほどのものになっていました。しかし、そうした絶頂期の1968年に、バンドは解散してしまいます。
クリームの解散を機に、ジンジャーはクラプトンやスティーヴ・ウィンウッドらとブラインド・フェイスを結成、彼らが1969年にリリースした唯一のアルバム『Blind Faith』は、イギリス、カナダ、アメリカのチャートでNo.1を記録しました。
ブラインド・フェイス解散後、1971年までジンジャー・ベイカーズ・エアフォースというジャズ/ロック/アフロ・ミュージックをミックスした自身のバンドで活動していますが、その後は、アフリカ音楽を追求するために南アフリカに移住し、ナイジェリアのミュージシャン、フェラ・クティとも一時期活動していました。
80年代からは、ホークウインドやパブリック・イメージ・リミテッドらとも活動し、80年代後半には役者を目指し、ロサンゼルスに移住しています。
1992年には、ハード・ロック・バンドのマスターズ・オブ・リアリティで活動、1994年にジンジャー・ベイカー・トリオ(ビル・フリゼール/g、チャーリー・へイデン/b)を結成したほか、ジャック・ブルースとゲイリー・ムーアと共に、BBMというバンドでも活動していました。
また2005年5月、ロイヤル・アルバート・ホールとマディソン・スクエア・ガーデンで、エリック・クラプトン、ジャック・ブルースと再結集し、クリームのリユニオン・コンサートを行なっています。
2012年には、ジンジャーの生涯を描いたドキュメンタリー『Beware of Mr. Baker』が公開され、そこではジンジャーの気難しい性格を垣間見ることができます。
ジンジャーの訃報を受け、多くのミュージシャンが追悼メッセージを発表しています。
ポール・マッカートニー:「偉大なドラマー、ジンジャー・ベイカーは、ワイルドで素晴らしい人物だった。ナイジェリアのラゴスにあった彼のARCスタジオで、一緒にアルバム『Band on the Run』に取り掛かった。彼の訃報は悲しいが、彼との思い出が消えることはない」
キンクスのデイヴ・デイヴィス:「ジンジャー・ベイカーは、偉大でユニークなミュージシャンであり、革新者でもあった。彼の死はとても惜しまれるだろう。彼とは古き時代に会い、数年前にニューヨークで会った時は元気そうで、いつもキンクスを褒めていた。彼の死は残念だが、良い人生を送ったと思う」
また、故ジャック・ブルースの家族も追悼メッセージをツイートしています。
「二人は愛憎関係を乗り越え、ジンジャーはジャックにとって兄のような存在で、二人のケミストリーは本当に壮観でした。史上最も偉大なドラマーの一人だったジンジャー、安らかに」
この他、ミック・ジャガー、リンゴ・スター、デヴィッド・カヴァーデイル、ブライアン・メイ、フリー(RHCP)らもツイッターで追悼の意を表しており、それらのメッセージはこちらの記事でご覧になれます。
安らかなる眠りをお祈り致します。
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