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ジャニス、サンタナ、ホイットニーらを発掘、アリスタ創始者でもある業界最重鎮・クライヴ・デイヴィス死去
[左上]クライヴ・デイヴィスのアドヴァイスで「Blinded By The Light」がレコーディングされたブルース・スプリングスティーンのデビュー作『Greetings from Asbury Park, N.J.』(1973年)。
[右上]グレイトフル・デッドがデイヴィスと契約しての初作品『Terrapin Station』(1977年)。
[左下]デイヴィスがプロデューサーとしてクレジットされグラミーを受賞したサンタナの『Supernatural』(1999年)。
[右下]やはりグラミーを受賞したケリー・クラークソンのヒット作『Breakaway』(2004年)。
長年彼の代理人を務めてきたアリザ・ラビノフによれば、彼は「家族や愛する人々に囲まれ、加齢に伴う病気で安らかに息を引き取った」とのことです。デイヴィスは近年、複数の健康問題を抱えており、5月下旬には上気道疾患のためニューヨーク市で救急搬送されたことが伝えられ、数日後に退院した際には同代理人が、彼は「相変わらず意欲的で、自宅で療養できることを喜んでいる」と述べていました。
2021年、デイヴィスはベル麻痺との診断を受けていました。ベル麻痺は顔面筋が突然、一時的な脱力を引き起こすという厄介な疾患で、この診断により、デイヴィスは1975年以来毎年グラミー賞授賞式の前夜に開催されてきた恒例のプレ・グラミー・ガラを延期せざるを得なくなりました。
デイヴィスの音楽業界における功績は、実に70年にも及び、関わった音楽のジャンルも多岐にわたりました。1967年に35歳でコロンビア・レコードの社長に就任して以来、デイヴィスは、ジョプリン、バリー・マニロウ、ヒューストン、グレイトフル・デッド、ノトーリアス・B.I.G.、アリシア・キーズ、ケリー・クラークソンなど、今や伝説的なアーティストたちと共に、全ての10年代でヒット曲を生み出してました。「彼は究極の鉄人プレイヤーだよ」と、ブルース・スプリングスティーンのマネジャーであるジョン・ランドーは2008年に『ローリング・ストーン』誌に語っていました。「彼は1960年代にレーベルの社長に就任した。当時もトップだったけど、40年経った今でもトップにいるんだ。これは驚くべきことだよ。後にも先にもあんな人は決して出て来ないだろう」
「彼が俺をコロンビア・レコードと契約させてくれたことで、俺の人生は変わったんだ」と、スプリングスティーンはデイヴィスの訃報を受けて記しています。「彼は何者でもなかった22歳の俺に対しても、成功を収めた後の俺に対する時とまるで変わらない、敬意と優しさをもって接してくれた。本当に偉大な人物だった。俺たちの心からの祈りと愛を捧げたい」
デイヴィスは亡くなる直前まで音楽業界の第一線で活躍しており、とりわけ注目度や華やかさの面では授賞式本番を凌ぐことも多かったとまで言われる毎年恒例のグラミー賞授賞式前夜祭パーティーの主催としても知られていました。かのアレサ・フランクリンをして「史上最高のレコードマン」と言わしめた彼は、アーティストを精力的に支援する一方で、行なった投資に対しては最大限のリターンを求める抜け目のない実業家としてもその名を馳せていました。MTVの元ネットワーク開発部門社長であるジョン・サイクスは、かつて彼についてこう語りました。「彼はヒット作を見抜くと同時に、その正確な売上枚数を言い当てることができるんだ。そんな芸当ができるのは、彼をおいて他にいない」
1932年4月4日、電気技師でセールスマンの父親と専業主婦の母親との間に生まれたデイヴィスは、主に中産階級が住むブルックリンのクラウンハイツ地区のユダヤ人家庭で育ちました。デイヴィスが18歳になる頃、彼の両親は僅か11か月の間に立て続けに亡くなりました。母親のフローレンスの死因は脳出血、父親のハーマンは心臓発作でした。
「17、18歳のときに両親が亡くなり、孤児として学校に通い、必要なもの全てを自力で稼がなければならなかったことで、私はたいそう鍛えられたんだ」とデイヴィスは後に振り返っています。身内からは経済的援助が受けられなかったため、デイヴィスは奨学金を得てニューヨーク大学に進学し、卒業後はハーバード大学法学部に通うためにまた別の奨学金を受け取りました。この時期に経済的に苦労したことで、勤勉な労働倫理と成功に対する果てしない希求が身についたと彼は言います。「少なくともB+の成績を維持できなかったら、奨学金を失うことになるからね」と彼は大学時代を回顧しました。「おかげでいまだにパフォーマンスは常に意識の中にあるよ」
ハーバード大学を卒業後、デイヴィスはニューヨークの名門法律事務所、“Rosenman, Colin, Kaye, Petschek and Freund” に職を得しました。同事務所での初期の業務の一つであり、かつ厖大な時間を要したのが、コロンビア・アーティスツ・マネジメント(レコード会社のコロンビアとは無関係のタレント・エージェンシー)の契約書を精査する仕事でした。当時同事務所に所属していた弁護士ハーヴェイ・シャインがCBSに引き抜かれ、同社の国際部門立ち上げを任されることになると、契約実務の経験を買われたデイヴィスも、同事務所の契約が切れると同時にシャインによってCBSへと招き入れられました。そして間もなく、デイヴィスは音楽部門の法務責任者に任命されることになったのです。
連邦取引委員会(FTC)による訴訟で、同社の代理人として法廷に立ったことをきっかけに、デイヴィスは音楽ビジネスの内部事情を目の当たりにすることになります。「その経験のおかげで、契約面だけでなく、小売や流通といった側面についても理解を深めることができるようになったんだ」と彼は振り返りました。当時コロンビア・レコードの社長を務めていたゴダード・リーバーソンは、デイヴィスの手腕に深く感銘を受け、当時35歳だった彼に西海岸へ移り、コロンビア傘下の楽器部門(フェンダー・ギターの製造会社を統括していた)の統括役を打診しました。デイヴィスは家族を連れての現在の住まいを遠く離れることを望まず、その申し出を断るつもりでいたのですが、ここで状況が一変します。リーバーソンが彼にCBSレコードの社長職を提示し、デイヴィスはこの申し出を受け入れたのです。「面白いもんだよね」と、彼はこの運命のいたずらについて語りました。「だって、本当に時の運だったんだから」
レーベルの社長に就任したデイヴィスは、約18ヶ月間かけて業務を学んだ後、1967年に運命のサンフランシスコ出張に出かけました。当初の目的は、オード・レコードを運営し、ママス&パパスのマネジメントも手がけていたルー・アドラーに会うことでした。アドラーに誘われてモンタレー・ポップ・フェスティヴァルを訪れたデイヴィスは、そこで人生を一変させるような体験をすることになります。それまでCBSレコードはトニー・ベネットやジェリー・ヴェイルといった比較的おとなしめのアーティストを主力としていたため、ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンのような新進気鋭のロック・アーティストに対し、観客が熱狂し大騒ぎを繰り広げる姿を目の当たりにしたデイヴィスは、大きな衝撃を受けたのです。
「信じ難い光景だった。あれは文化的な革命であり、社会的な革命、そして明らかに音楽的な革命だったんだ」と、デイヴィスは2017年に『ローリング・ストーン』誌に語っています。「自分が今、極めてユニークで深淵な、何かの渦の只中にいるんだって確信していたよ」。とりわけ、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーを従えたジョプリンのパフォーマンスは、彼の意識に深く強烈な印象を刻み付けました。「ジョプリンは圧倒的だった、まるで白い竜巻だった」と言うデイヴィスは、すぐに彼女とビッグ・ブラザーを自身のレーベルと契約させました。「私は1968年半ばにはその音楽を世に送り出すべく準備を進めたんだ。これこそが新たな革命的サウンドだと謳うキャンペーンを展開し、世界中に響きわたらせようってね」
「当時は社内の若手と年配社員の間でもの凄いせめぎ合いがあったんだ」と、コロンビアでデイヴィスと共に働いていたブルース・ランドヴァルは証言します。「でもクライヴがやって来てからは、ロックンロールが最優先事項になったんだよ」
モンタレーを機に、デイヴィスはサンタナ、ローラ・ニーロ、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、シカゴ、ジョニー・ウィンター、スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、ハービー・ハンコック、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、ピンク・フロイド、ニール・ダイアモンドらと次々に契約を結び、コロンビアを世界で最も成功したロック・レーベルのひとつへと育て上げて行きました。
ところが、コロンビアにおける成功の絶頂期に、デイヴィスは自身のキャリアの中で最も大きな挫折の一つを経験することになります。1973年、ニューアークの連邦検事ジョナサン・ゴールドスタインは、コロンビア・レコードに勤務していた男が関わるマフィア事件を追っていました。デイヴィスいわく、その男は彼の署名を偽造し、請求書を偽造することで、キックバックを受け取っていたのです。連邦捜査官に逮捕される前に発覚し解雇されたにもかかわらず、その男はデイヴィスがプライヴェートでのジャマイカ旅行やビヴァリー・ヒルズの家、プラザ・ホテルでの息子のユダヤ教式成人式など、個人的な支出を会社に回していたと非難しました。さらに男はデイヴィスを贈賄(レコード会社が自社の作品やアーティストを宣伝するためにラジオDJ等に金を支払うという業界の慣習に則ったもの)で告発し、CBSは十分な調査も行なうことなく、即座に彼を解雇したのです。
デイヴィスは最終的に贈賄及び会社資金の私的流用については潔白が証明されたものの、脱税の罪で1件の有罪を認め、1万ドルの罰金を支払うことになりました。彼は2008年にこの件に言及し、「私に何か不正行為があったなどというのは不当な嫌疑だ。息子のバル・ミツヴァ(成人式)の費用を(経費として)請求したことなど一度もない──あれは全くのデタラメで、当の男は刑務所行きになり、私の無実が証明されたんだ!」と語っています。
1974年、デイヴィスはコロンビア・ピクチャーズの音楽部門の社長に就任すると共に、同社の株式の20%を取得しました。彼は同社の名称を「アリスタ(Arista)」に変更しましたが、これは彼自身もかつて所属していた、ニューヨーク市の公立学校における優秀な生徒の組織(優等生協会)の名前に由来するものでした。彼は不当解雇を理由にCBSを提訴すると通告し、これに対してCBS側は、100万ドル相当の通信販売契約をアリスタに与えるという形で応じました。1979年、コロンビア・ピクチャーズがアリスタをBMGに売却した際には、デイヴィスは同社の株式を保有していたことから、莫大な富を手にすることとなりました。
アリスタ・レコードにおいても、デイヴィスは、グレイトフル・デッド、ルー・リード、パティ・スミス、アニー・レノックスといった面々と契約を結び、音楽シーンのあり方を決定づけるようなアーティストたちを次々と世に送り出したのです。
デイヴィスには設立当初から、アリスタをメジャー・レーベルの地位に押し上げようという目論みがありました。かつての雇い主だったCBSやアトランティック・レコード、RCAといったレーベルと互角に渡り合える存在にしようとしたのです。「実質的にはゼロからのスタートだった」と、デイヴィスは語ります。当時彼は、そうしたレーベルと本格的に競い合うためには、自分では作詞作曲をしないけれど、歌うことにかけては誰よりも才能ある歌手たちを売り出すための “ヒット曲” が必要だと考えていました。「自分で曲を書きたいんだけど、と言ってきたシンガーに対しものを書けるのかい? 書けるなら書けばいいさ。でも書けないと思うなら、止めておいた方が賢明だよ、ってね」
デイヴィスがアリスタ・レコードにおけるポップ・ミュージックでの成功のひな型を築く助けとなったと評価しているのが、スコット・イングリッシュとリチャード・カーの楽曲をレコーディングし、「Mandy」と改題してビルボード・ホット100で1位を獲得したバリー・マニロウです。「ディオンヌ・ワーウィックや “ソウルの女王” アレサ・フランクリン、そして言うまでもなくホイットニー・ヒューストンと契約できたのは、バリー・マニロウの存在があったからこそであり、彼がその道を切り開いてくれたんだ」とデイヴィスは語りました。
そして、他のどのアーティストよりも強くデイヴィスと結びつけられる存在だったのがヒューストンでしょう。1983年、彼女が母親のシシーのショウの一環として、従姉妹であるディオンヌ・ワーウィックのオープニング・アクトを務めていた「シアウォーター」でのパフォーマンスを初めて目にした際、デイヴィスは彼女について「驚くほど素晴らしい歌声、純真さ、力強さ、そして美しさを備えていた」と回想しています。デイヴィスの導きにより、彼が「史上最高の現代の歌手」と評したヒューストンは、7作連続で全米シングル・チャートの第1位を獲得し、5,000万枚以上のレコードを売り上げるなど、歴史に残る偉大な女性レコーディング・アーティストの一人となりました。
そんなヒューストンが2012年、薬物の過剰摂取で亡くなったことは、デイヴィスには大きなショックを与えました。「彼女自身も私も、彼女が死と隣り合わせの状態にあるとは全く理解していなかったんだと思う」と、彼は2013年に『ローリング・ストーン』誌の取材の中で振り返っています。「誰であれ、薬物の致命的な影響によって命を絶たれた人に対しては、その悲劇を痛感せずにはいられないよ」
二度の結婚で4人の子供をもうけていたデイヴィスは、子供たちと定期的に日曜の夕食を共にすることを最優先事項としつつ、晩年も変わらぬ成功を収めました。2000年、BMGによってアリスタ・レコードを追われた彼は、新たに自らのミドルネームのイニシャルを会社名に冠した「Jレコーズ」を設立します。企業間協定に基づき、彼はアリスタから10組のアーティストを連れていくことを認められました。その内訳は、すでに実績のあるアーティスト5組(ホイットニー・ヒューストンとサンタナを除く)と、まだ作品をリリースしていないアーティスト5組でした。そしてデイヴィスにとって特に誇らしい出来事となったのは2002年のことで、BMGがJレコーズにおける彼の保有持分を推定2,000万ドルで買い取り、彼はその後、RCAミュージック・グループの社長兼CEOに任命されたのです。
その後2000年代半ばになっても、デイヴィスはアリシア・キーズ、エディ・ヴェダー、アッシャーらとヒット作を次々と生み出しました。また、ロッド・スチュワートに『American Songbook』を歌うよう促してそのキャリアの復活劇を演出した(スチュワートいわく、「クライヴはやり過ぎなくらい深く関わっていたよ。彼は俺がそのキーで歌えるかどうかなんかお構いなしに、勝手に曲を選んでキーを変えてしまうんだ」)他、『アメリカン・アイドル』と提携し、キャリー・アンダーウッド、ケリー・クラークソン、ファンタジアといった優勝者のアルバムをリリースしました。デイヴィスは2008年までRCAレーベル・グループに在籍し、その後ソニーBMGのチーフ・クリエイティヴ・オフィサーに任命されました。
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2013年、彼は回顧録『The Soundtrack of My Life』を出版し、その中で80歳にしてバイセクシュアルであることを公表しました。同書の中で彼は、男性と初めて性的関係を持ったのは『Studio 54』の時代だったと明かし、その経験が「自己探求と自己分析」の時期へとつながったと述べています。1985年に2番目の妻ジャネット・アデルバーグと別れてからは男女双方のパートナーと交際するようになり、1990年以降の長期にわたる交際相手はいずれも男性でした。
「どちらか一方でなければならない、ということはないんだよ」と、デイヴィスはケイティ・クーリックとのインタビューで語っています。「私は自分自身の可能性を開放したんだ、女性との2度の婚姻関係と同様に、男性との関係を築くこともできるってね」。その後、『Nightline』のインタヴューでは、バイセクシュアルというあり方そのものが「世間で不当に扱われ、誤解されている」との主張を述べていました。
いずれにせよ、その60年に及ぶキャリアを通じて、デイヴィスは探求への情熱と、音楽の力に対する揺るぎない信念を持ち続けました。
「音楽は人々の生活に欠かせない必須要素だと思う」と、彼は『Talks』に語っています。「テクノロジーの世界でどんな革命が起きようとも、音楽が時代遅れになることは決してない。人々は音楽を必要としているし、長きにわたって、さまざまな形でそれを求めてきたんだ。教会の伝統にしろ、生活の中の色んな慣習にしろ、ポップ、ソウル、ロック、ジャズといったジャンルにしろ、音楽は極めて自然でベーシックな、人生を心から楽しむために不可欠な要素なんだ」
安らかなる眠りをお祈りいたします。
ホイットニー・ヒューストン
『Whitney』
Amazon Music(JUN 01 1987)
バリー・マニロウ
『Barry Manilow II』
Amazon Music(MAY 09 2006)
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