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アイリッシュ・トラッド界の最重鎮、ドーナル・ラニー死去
ドーナル・ラニー『Coolfin』
Amazon Music(JAN 01 1998)
「私たちの愛するドーナルが、ダブリンのセント・ジェームズ病院での短い入院を経て、今朝安らかに息を引き取ったことを、胸が張り裂けるような思いと共にご報告いたします次第です」と、同投稿には綴られています。「彼が音楽や文化、そして世界中の多くの人々の人生に果たした多大な貢献を、皆様が私たちと共に偲び、称えてくださることに感謝申し上げます」
ラニーは、兄のフランクやクリスティ・ムーアと組んだトリオ、レイクス・オブ・キルデア(Rakes of Kildare)で頭角を現すと、その後もプランクスティ、ムーヴィング・ハーツ、ザ・ボシー・バンド、クールフィンといったバンドで活動を続け、世界各地でツアーを行なって、アイリッシュ・トラッド・ミュージックのリヴァイヴァルと成長に幅広く貢献を果たしました。
また、TVドラマ、ドキュメンタリー、映画など、多岐にわたるプロジェクトの作曲や楽譜作成も手掛けており、近年ではケイト・ブッシュ、ロッド・スチュワート、エルヴィス・コステロ、クラナド、そしてダイアー・ストレイツのフロントマンであるマーク・ノップラーといったコンテンポラリーなアーティストたちとも共演していました。アイルランドの音楽シーンに永続的な影響を残したことでも知られている彼は、かつて同郷の士であるU2のボノから、同国における「クインシー・ジョーンズに匹敵する存在」と評されたこともある存在でした。
1947年、オファリー州タラモアで生まれ、5歳の時にキルデア州ニューブリッジに移住したラニーは、自身にとっては音楽が、幼い頃から常に人生の楽しみの一つだったと語っています。アイルランドの放送局RTÉによれば、彼が若き日のクリスティ・ムーアと初めて出会ったのは1959年のことで、この2人の同級生は、その後何十年にもわたって続く音楽的な絆を互いに感じ取っていたのだそうです。
ムーア、リアム・オフリン、アンディ・アーヴァインと共にプランクスティを結成したラニーは、1971年から1973年にかけて3枚のアルバムを録音し、全作品を通じてブズーキ、ギター、キーボード、ボドランを担当し、アイリッシュ・トラッド・ミュージックの再定義に貢献しました。
1973年、彼は自らのレーベル、マリガン・レコードを設立し、その後17枚のアルバムを世に送り出しました。同レーベルからはブームタウン・ラッツ、ザ・ラディエーターズ、アグネス・バーネルなど、幅広いアーティストの音楽がリリースされています。
1975年、ラニーはザ・ボシー・バンドに加入し、マット・モロイ、トリオナ・ニー・ドムネイル、ケヴィン・バーク、パディ・グラッキン、パディ・キーナンらと共に、アイルランドの伝統音楽の境界を広げる役割を果たしました。
1981年、アイルランドがユーロヴィジョン・ソング・コンテストの開催国となった際には、コンテスト中の休憩時間の出し物として、ドーナル・ラニーとビル・ウィーランがバロックの影響を感じさせる伝統音楽の3部構成の組曲『Timedance』を作り、それをプランクスティで音源化し、ライヴでも披露しました。
さらに1994年の同コンテスト(これもアイルランドで開催された)で、休憩時間の演出を任されたウィーランは、自身とラニーがかつて築いた基盤を足掛かりとして、より発展させて行きました。この「休憩時間の出し物」の発展形が、後に本格的な舞台作品『Riverdance』──ウィーランが作曲を担当し、マイケル・フラットリーが主演を務めた──へと昇華されることとなり、同作品は世界でも最も成功した巡回舞台公演の一つとなったのです。
「僕があれに『Riverdance』ってタイトルを付けたのは決して間違いじゃないんだよ。だって、あれは紛れもなく『Timedance』と結びついていたからね」と、ウィーランは2006年に出版されたリーグス・オトゥールの著書『The Humours of Planxty』の中で語っています。
1992年、ラニーは好評を博したTVシリーズ『Bringing It All Back Home』の製作および音楽監督を務め、ここからプロデューサーのフィリップ・キングとの長きにわたるクリエイティヴなパートナーシップが始まりました。彼はエイダン・クインとジェームズ・カーンが主演した『This Is My Father』をはじめ、数々の映画音楽も手掛けています。
数十年にわたる輝かしいキャリアを経て、ラニーは2018年のBBCラジオ2フォーク・アワードで生涯功労賞を受賞しました。
また昨年、彼はRTÉラジオ1主催の『アイリッシュ・フォーク・アウォード』でも生涯功労賞を受賞しています。彼が生前最後に公の場に姿を見せた機会のひとつは、今年8月にベルファストで開催された『The Fleadh Cheoil na hÉireann』[訳注:英語に直すと「All-Ireland Festival」]でのパフォーマンスでした。
これまでのキャリアを通じてラニーと協働してきたミュージシャン兼作曲家のニール・マーティンは、この死を「計り知れない損失」と表現し、彼を「並外れた人物」と評しています。
「60年代半ば以降、トラディショナル・ミュージックの世界で重要な動きがあった時には、そのほぼ全てにおいて、ドーナルはその中心にいたんだ」と、彼はBBCの番組『Evening Extra』で語りました。また18ヶ月前にドーナルと酒を酌み交わした時のことを振り返り、ニールは「いつものラニーがまた戻ってきたぞ」と思ったと言い、彼がしばらく前から体調を崩していたことは知っていたものの、訃報が届いた時には「少なからずショックを受けた」と述べています。
彼は番組の中で、ドーナルとの最後の思い出が「幸せな思い出」であることを「とても嬉しく思っている」と語り、「アイルランドのミュージシャンなら誰でも、どこかの段階で必ず彼の存在に感謝するはずなんだ」と付け加えました。
『アイルランド伝統音楽アーカイヴ』(ITMA)は声明の中で、ラニーがアイルランド音楽に与えた影響は「計り知れない」ものであり、「和声やリズムの新たな可能性を切り拓いた」その功績を称えました。
同アーカイヴは、彼が自身のバンドで生み出した実績に触れ、「彼の想像力がアイルランド音楽のサウンドを形作り」、そのキャリアは「創造性、友情、そして協働」の上に築かれたものだったと評しました。
「ドーナルは私たちに、傑出した数々の作品を残してくれました。彼の芸術性、寛大さ、そして影響力は、我々の間に生き続ける伝統の中に、また、彼を知り、彼からインスピレーションを受け、あるいは彼と共に演奏し、仕事をするという光栄に浴した多くの人々の日々の生活の中に、深く織り込まれているのです」とITMAは付け加えています。
ラニーの遺族には、子供たちのオイシン、コーラ・ヴィーナス、ソラ・チャン、そしてパートナーのウナ・オボイルが含まれます。弟のマヌスもまた、著名なミュージシャン兼プロデューサーです。
なお、彼は2000年代初頭、共作者だったシネイド・オコナーと短期間交際しており、2004年には息子のシェーンを授かりましたが、彼は2022年に17歳で亡くなり(2022年1月12日MLCニュース)、その後2023年に母親のシネイドもこの世を去っています(2023年7月27日MLCニュース)。
安らかなる眠りをお祈りいたします。
Planxty
『Planxty』
Amazon Music(2JAN 01 1973)
The Bothy Band
『1975』
Amazon Music(AUG 26 2008)
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