【ミュージック・ライフ写真館】追悼・チャーリー・ワッツ【ML Imagesライブラリー】

【撮影:長谷部 宏、小嶋秀雄 pix : Koh Hasebe, Gutchie Kojima / ML images / Shinko Music】

寂しいが仕方ない。本当にありがとう、チャーリー

〈追悼・チャーリー・ワッツ〉森田敏文/ミュージック・ライフ・クラブ

チャーリー・ワッツが亡くなった。享年80、つい最近、体調がすぐれないので9月末からのツアーに参加しないことが発表されたばかりだったが、こんなに早く亡くなってしまうとは。まさに晴天の霹靂、なんとも言えない寂しさに襲われている。

ストーンズの核がグリマー・ツインズことミック・ジャガーとキース・リチャーズであることは論を俟たないだろう。オリジナル曲のコンポーザーであると同時にステージ上でも主役であり、広報担当でもあるのだから。しかし、その後ろでしっかとボトムを支えているチャーリー・ワッツがいてこそストーンズ・サウンドが成立していたのも確かだ。

もともとジャズに惹かれてジャズ・ドラマーを志したというチャーリー・ワッツだが、その頃のアイドルはバディ・リッチだったらしい。日本ではジャズ・ファンの間で本国の大人気に比して異様なほど不人気だったバディ・リッチがアイドルだったというのも面白いが、そういえばコージー・パウエルもかつてバディ・リッチがアイドルだったとMLの取材で語っていたのを思い出した。バディ・リッチには英国の若いドラマーを惹きつける何か特別なものがあったのだろうか。もちろんビッグ・バンドからコンボまでこなす抜群のテクニックに心酔したのは間違いないだろうが、その人気ぶりに対する憧れも大きかったのだろう。

チャーリー・ワッツがジャズ・ドラマーを志しながら、なぜロック・バンドに参加することになったのか。日本でも角田ひろのように渡辺貞夫のレギュラー・グループから成毛滋のフライドエッグまでジャズ〜ロック界隈を自由に往き来したドラマーもいるが、当時のイギリスではどんな力が働いたのだろう。おそらくジャズやブルースなどの黒人音楽を貪欲に吸収して自前のものとして表現しようとしていたミュージシャンたちにとって、アレクシス・コーナーやクリス・バーバーらを中心にしたロンドンのシーンでは厳密なジャンル分けはあまり意味をなさなかったのかもしれない。なんでも学ぼうという学習意欲が当時のロンドンの音楽を急成長させていく。そんな中でストーンズも生まれた。

チャーリー・ワッツもアレクシス・コーナーのグループでの活動中にキースと出会い、ジャズのルーツでもあるブルースを聴くよう勧められ、それが縁でストーンズ結成時に参加することになっている。当初は「2年くらい」の腰掛け程度にしか考えていなかったという。それが最終的には「チャーリー・ワッツがストーンズの核だ」とキースに言わせるまでになったのだから、ミュージシャン稼業も先はわからない。

本人はインタヴューで「自分はジャズ・ドラマー」であり、それが「世界一のロック・バンド」でドラマーを務めているだけと語っていた。理由も「好きだから」とあっさり。しかしそうしたスタンスそのものが、チャーリー・ワッツをチャーリー・ワッツたらしめていたわけで、ガチガチに入れ込まず、ロックに対して適度な距離を置いていたからこそ、ストーンズ・サウンドを特別なものにしていたのは間違いない。

ドラマーとしてのチャーリー・ワッツがどれほどジャズに入れ込んでいたのか、それはジャズ評論家の小川隆夫さんがチャーリーにインタヴューした記事を読んでもらうのが一番だが、次から次に出てくるジャズ・ミュージシャンの名前に驚かされる。最も彼自身のソロ活動が100%ジャズだったことを思えば不思議ではない。おそらく彼の中ではずっと若かりし頃のジャズ・ドラマーへの憧れが当時のまま生き続けていたのだろう。

それはプレイだけでなく、ファッションにも顕著だった。『The Charlie Watts Quintet - A Tribute To Charlie Parker With Strings』では有賀幹夫さんが撮影した写真がジャケットに使われているが、サックスを手にしているチャーリー・ワッツの服装はお洒落なスーツ。それこそかつてのジャズ・ミュージシャンのファッションそのものだ。

The Charlie Watts Quintet
『Tribute to Charlie Parker with Strings』

(The Continuum Group, Inc.:1992)

これまでのストーンズ史で去っていったメンバーたちとチャーリー・ワッツとの死別は全く性格を異にする。ブライアン・ジョーンズ、ミック・テイラー、ビル・ワイマン、確かに彼らの脱退はバンドの大きな節目となりサウンドが変化した。しかし、それでもチャーリー・ワッツがいる限りストーンズはなんとか続いていくのだろうと思えた。根拠はないが、これまでのバンドの危機もチャーリー・ワッツの存在そのものが無言のうちにそれを遠ざけてくれたのだ、と思っていたのだ。

チャーリー・ワッツがいないストーンズはもはやストーンズではない。そうした意見は確かに正しい。一方でミックとキースが新たに曲を作り続ければ、それは新たなストーンズである、という見方にも与したい。ストーンズ・ファンはストーンズの終焉を認めたくないのだ。勝手なものだ。

純粋に音楽ファンであったチャーリー・ワッツは、天国でも憧れのジャズメンたちとセッションを繰り広げていることだろう。

寂しいが仕方ない。
本当にありがとう、チャーリー・ワッツ。
今日は一日中、ストーンズを聴くよ。
 

森田敏文
(元『クロスビート』『ミュージック・ライフ』編集長)

〈ミュージック・ライフ写真館〉

ストーンズ公式の追悼ツイートに、チャーリーのことを称して “beloved” という言葉が使われていましたが、メンバーや関係者にとってだけでなく、我々ファンにとってもまさに、チャーリー・ワッツは愛すべき人物でした。享年80、それ以外の詳細はまだ明らかにされていないものの、世界中のストーンズ・ファンが悲しみに暮れていることは確かです。9月に始まるアメリカ・ツアーは代役をスティーヴ・ジョーダンが務めることが生前から発表されていましたが、それでもキースは常々「チャーリー・ワッツこそがストーンズ」と公言してはばからないほど。これから一体どうなるのでしょうか……。

ミュージック・ライフ・クラブでは謹んでお悔やみ申し上げますとともに、「ミュージック・ライフ写真館」で追悼の意を表したいと思います。ありがとうチャーリー、大好きでした。安らかにお休みください。

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『ミュージック・ライフ』とローリング・ストーンズの関係は、彼らのデビュー間も無くまで、半世紀はさかのぼります。何しろビートルズ人気で部数を爆発的に伸ばした雑誌ですし、その直後から、ストーンズは現地でビートルズに次いで人気のあるグループとして取り上げていました。60年代末のブライアン・ジョーンズ在籍時には直接取材もしており写真の撮影もしていたはずなので、それについては今後引き続きリサーチを続け、いずれお目にかけたいと思います。

現在すでにライブラリにあるもので最も古いのは、1972年8月、後に『山羊の頭のスープ』となるアルバムのレコーディング取材ということになるでしょうか。星加ルミ子編集長+長谷部 宏カメラマンはバンド側に招かれ、一路ジャマイカへと飛びました。

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(以下すべての画像はタップ/クリックで拡大できます)

 

この時の取材ではメンバー全員に個別のインタヴューを行ない、レコーディング中の様子や、プールやレストランでくつろぐメンバーの姿も残されていて、翌1973年2月号に「ローリング・ストーンズ、ジャマイカでレコーディング中!」とまとめられています。もちろん若き日のチャーリーも。

『ミュージック・ライフ』1973年2月号

そしてストーンズには幻となった来日公演があったことはご記憶でしょうか。予定されていた日程は1973年1月28日から2月1日までの5公演で、実際にチケットも発売されました。しかしミックの過去の逮捕歴が仇となって直前に入国許可が下りず、公演はキャンセルに。この後長らくストーンズの来日は不可能だと思われていたものです。

73年2月号のストーンズ特集は来日公演を当て込んでのものでしたが、来日は実現せず。そのため次の3月号では「MLだけが知っている日本公演中止の真相」と銘打ち2号連続の特集を敢行。そこでは幻となった日本公演の直前のステージとなるはずだったハワイ公演を取材、レポートとともに写真を掲載しています。ここでは3枚だけですが、1973年1月21、22日、ハワイはホノルル・インターナショナル・センターのステージです。

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それから時は過ぎ、1989年、アルバム『スティール・ホイールズ』発売ののちの日本公演が発表されます。出来て間もない東京ドームで、1990年2月の10公演でした。それはそれは大変な、まさにお祭り騒ぎ。これからもう31年ですか……。

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写真は前もって行なわれた記者会見と、ステージ全景、そしてチャーリーも写ったカット(ピントは手前のようですが)。「もっとステージの写真を見せろ」とお思いの貴兄、ステージの写真はミック/キースを中心に多数あるもののそもそもチャーリーが写っているものは少なく、また何しろ馬鹿でかいステージセットのためチャーリーは遠い。そんな物理的な理由にもよるため、なにとぞご理解ください。そしてもはや会場としてはスタジアムでしか演奏できない彼ら、オフィシャル・カメラマンでなければその距離感は以後の公演も同様なのです。

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続いては2003年、横浜アリーナ公演より。スタジアムではなくアリーナのためいくぶん距離は近め、そしてチャーリーの画像も多めとなっております。
 
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こののち彼らは2006年、2014年にも来日。つまり最後の来日からもう7年も経ったことになります。ストーンズに限らず高齢アーティスト/グループの来日公演は、毎度「これが最後!?」と謳われる今日この頃、チャーリーに関してはこの2014年が本当に最後になってしまいました。もう見られないのは残念でなりません。重ね重ね、謹んでお悔やみを申し上げます。
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1960〜90年代にかけて、雑誌『ミュージック・ライフ』は、フォトグラファー長谷部 宏氏を中心にした撮影陣で、数多くの海外アーティストの写真を撮り続けて来ました。60年代にはビートルズ、70年代にはクイーン、KISS、チープ・トリック、ジャパン、80年代にはボン・ジョヴィやデュラン・デュラン……などなど、撮りためたポジ・フィルムやプリントは、数十万枚にも及ぶ量になります。しかもその貴重さは世界的レベルのため、海外からのリクエストも絶え間なく寄せられています。

現在我々は、そのコレクションを「ML Images」と名付け、膨大な量の写真を地道に整理整頓しつつ、貸し出すサービスを行なっており、ライブラリへアップロード済みの画像は目下約3万点で、現在も増え続けております。ご利用をご希望のメディア/展示スペースの方は、弊社までご連絡いただければ、具体的なご希望がない場合でもスタッフがお応えいたします。お気軽にご相談ください。メールはこちらから。

※個人の方へのご提供は行なっておりません。
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